第35話 Still Asleep On the Ice

 自分が生まれた時のことを覚えている人間はいるのだろうか。

 わたしは、初めてスケートをした日のことすら覚えていない。気付いたら、氷の上で飛んだり回ったりしていた。

 でも、洵が初めて氷に上がってきた時のことはよく覚えている。


 あの日、ママはどうしてもおばあちゃんの病院に付き添わなきゃいけなくて、洵は家に帰らずわたしと一緒にグランピアのリンクに来た。

 わたしはそのまま靴を履いて、レッスンを受けた。

 洵はリンクサイドのベンチに座り、算数のドリルを広げて黙々とやっていた。

 どう考えても寒いし、姿勢的にも無理があるのに、なぜかロビーや採暖室には行こうとしなかった。

 わたしは、変なのと思いつつも、先生が他の生徒を見ている隙に、可憐とスピン競争をしたりしてはしゃいでいた。


「君はやらないの? スケート」

 整氷中、美優先生が洵に話しかけた。

 顔を上げた洵は、先生の顔を穴が開くほどじっと見た後、やりません、と言った。


「ぼく、変な衣装着て踊ったりするの、誰にも見られたくないんで」


 ……そんなこと考えてたの、洵。

 うん、そうだよ、汐音。


 わたしはムッとしたが、美優先生はアハハと豪快に笑い飛ばした。


「カッコいいの着ればいいじゃない。それにね、君みたいな子は一番向いてるのよ」

「ぼく、みたいな?」


 洵は目を見開いた。

 ぼくたち、じゃなくて?

 美優先生は強くうなずく。


「他人にどう見られるかを気にする子は、一番向いてるの。フィギュアスケートは、見られて成り立つ競技だから。……汐音ちゃんは、そこのところあまりピンとこないみたいね」

 ちらりと先生はわたしを見る。

「楽しければいいって。それはそれで大事なことなんだけど」


 ドキリとした。完全に見透かされていたから。

 そして、それは洵も同じだった。


 小学校の三年間、スケートには見向きもせず、サッカーだのピアノだの空手だのとあれこれ手を出し、どれもそれなりにこなしていた洵。

 あの時、美優先生の言葉をきっかけにして、そのままあっさり洵は初めて氷の上に乗った。

 レンタルシューズを履いて、そうっと氷に足を乗せた瞬間、いきなり洵はすっ転んだ。

 見ている全員が顔をしかめるくらい派手にお尻を打って、泣き出すかと思いきや、ぽかんと真顔で、


「全然、思い通りにならないんだな」

 呟いた後、にやっと笑った。


 汐音、今までこんな楽しいことやってたの。もっと早く教えてくれればよかったのに。

 

 わたしも、にやっと笑った。


 そうだよ、洵。スケートって楽しいの。

 わたしたち、これからここで、どんな風に自分を更新していけるだろうね。

 どんな景色を見られるだろうね。

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