第33話 knock, knock (Inter-section)

 少年の身体は黒い服に包まれ、四肢は闇に溶け込んでいる。首筋と耳だけが青白く浮き上がっていた。

 雲は今にも落ちてきそうなほど暗く重なり、雨は土砂降りになっている。

 時々遠くで雷が光り、少年の頭部と肩のラインが照らされる。

 短い髪の毛から水滴がしたたり落ちていた。


「びしょ濡れじゃん。わたしの傘に入りなよ」

「それ君のじゃないでしょ」

 冷めた目を向けられ、憮然とする。どうして分かったんだろう。

「……別にいいじゃん、傘なんて誰のでも」

 憮然と呟くと、まあね、と言ってひょいっとわたしの傘に入ってきた。

「でも靴はそうはいかない」

 そしてわたしの手から傘を取る。

「だから背中のそれ、ちゃんと守ってね。錆びたら大変だから。エッジは刃だ」

 その瞳を、昨夜暗闇の中見たのと同じ一条の銀色の光が走った。


「……あんたスケーターなの」

「そうだよ。ぼくスケーター」

 再び歩き始める。も、と流し込まれた温もりに反発を覚えた。

「わたしは、もうやめたし」

 少年はぷっと噴き出した。

「どうして笑うの」

「いや、無理だから」

 そして真顔に戻る。

「君は死ぬまで氷から離れられない」

 言葉の重さが比喩を超えてわたしの胸に届いた。

 死ぬまで。離れられない。

 黒い瞳がちかちかと雷光を映し出している。

「……何。それ呪い?」

「いやどっちかというと、予言?」

 冗談めかしたように笑う。

 わたしは立ち止まった。

「なら教えて。リンクに行ったらどうして死ぬの? スケーターなら行くしかないでしょ」


 魂の在処ありかはあそこだけって、分かるでしょ。


 少年はため息をついた。

「君が抜き取ったんだから無いよ。……歩こう。立ち止まるのもまずいんだ」

 すっと氷のような冷気が肌を透過し、わたしは自分の中の薄い膜が溶けるのを感じた。ぶるりと身体が震えた。

 足を踏み出す。地と水の隙間を縫う、慎重な一歩。


「抜き取るって、別に。交換しただけだもん」

 いつものあれ。地上の入れ替わり。

「ならどうして、なんて言ったの?」

 少年は射るような目を向けた。


 世界をあきらめる。

 その言葉の本当の意味を、君は分かっているの?


 ずしり、と背中が重くなる。


「……君は取り返しのつかないことをしたんだよ」

 傘が洞穴のように、声がいつまでも響いた。

 一歩踏みしめるごとに身体の境界線が滲んでいく。柔らかい殻に包まれている。割られる前の卵みたく揺れている。

 見えない亀裂を踏みぬかないよう、そっと歩く。


 洵と、相合傘をしたことなんてあっただろうか。記憶に無い。

 男女の双子は何かとからかわれるから、低学年の頃から既に、わたしたちは意識して物理的な距離を取っていた。

 それでも、一度くらいはあったはずだ。雨が降れば、世の兄妹は皆そうするように。


 横顔を盗み見る。全然、洵には似ていない。

 でも、肩のラインがわたしときれいに並んでいた。背の高さが同じだった。きっと目線の高さも。

 ずっとこうならよかったのに。

 忘却の水底。遠い昔を見通す深度まで、わたしは今降りてきている。


「洵がスケートなんか始めるからだよ……」

 気付けばわたしは声を漏らしていた。

 道標のように等間隔で置かれた電灯の光がビニール越しにぼわりと歪む。

「……誰かのスケートを、取り上げることはできないよ」

 ゆっくりとした歩調で、少年は言う。

 しかし声は引き締まった氷のように固い。

「氷の上に立つ限り、ぼくたちはどこまでも一人だ」

「だから嫌いなんだよ」

 スケートなんか!

 わたしは強く地面を蹴った。

 推進力の無い一歩。滑らない。

 これが正しい。これが普通。


「ウソつき」

 背中から声が響いた。

 途端に肩が雨に曝され、振り返る。

 少年が立ち止まっていた。


「本当は誰より愛している。だから死ぬまでやめられない」

 その瞳は、磨きたてのエッジのように鋭く光っていた。


「ぼくのことを覚えてる?」

 わたしは呆然と首を振る。

 少年の目元が翳る。


「……もしかして、わたしたちどこかで会ったことがあるの?」

「ずっと、一緒だったんだよ」

 消え入るような声が波紋を広げた。

 胸が苦しい。

 世界が重くてたまらない。


 いつの間にか大通りに出ていた。

 そこは交差点で、少年の傍にはバス停があった。

 車は一台も通らない。時々強い風が雨粒の束を押し流す。

 表示も時刻表も無い煤けた白い木の板を、少年はノックするようにこんこんと叩いた。

「次に来るバスに乗ってね」

「乗れば戻れるの?」

「着くまでに、自分が生まれた時のことを思い出して。そうすれば、多分戻れる」

 多分? でも楯突いても仕方ない。


 バスはすぐに来た。ヘッドライトが闇を切り拓く。

 少年が傘を閉じて返そうとしたので、

「いい。あげる。わたしのじゃないけど」

「……ありがとう」

 照れたように笑い、また差した。そして小声で呟いた。


「本当は靴だって、何だっていいよね」

 氷の上にさえいられればさ。


 クラクションが二度鳴る。ステップに足を掛け、振り返った。


「待って。まだ名前を聞いてない。あんた、本当は誰なの?」

「ぼくは君だ。次は本当の場所で会おう、ぼくたちの」


 わたしの瞳の一番奥に向けて、少年は笑った。

 ライトに照らされた足元を見て、ぞくりとした。

 足首が無かった。

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