第23話 潮汐
朝五時半。まだ薄暗いうちに練習は始まる。
今朝はパパの送りだった。部屋のことが尾を引き、誰も車内で口をきかなかった。
一言でも発すれば、何かが先に進んでしまいそうだった。
洵は相変わらずイヤホンを付けて、両手をポケットに入れて目を瞑っている。
何の曲を聞いているのか。それとも、何も聞いていないのか。
もう分からない。
わたしは、曇った窓をごしごしと擦った。しとしと、雨が降っていた。
ロッカーに荷物を置き、トイレに行く。
鏡を見て、まだ髪を切っていなかったと思った。
明日は埼玉アイスアリーナでバッジテスト。
わたしは、七級を受ける。
今日中に切らなきゃ。
……ママは嫌がるだろうな。
――また切るの? ショートカットってフィギュアスケートには向かないわよ。お団子かポニーテールにするのが一番理に適ってるんだから、あなたもいい加減髪を伸ばしなさい。可憐ちゃんみたいに。
――洵は?
とわたしは訊く。
ママはもううんざりとばかりにため息をつく。
――何言ってるの。洵は男の子でしょう。
髪を伸ばすのはどうしても嫌だった。
身体が濃いほど透明から遠くなる。光を受け取れなくなる。
それにしても、最近のわたしは髪が伸びるのが早い。
洵も前髪が伸びているけど、わたしの頭のシルエットの方が全体的に丸みを帯びて、もったりして見える。
鏡の中のわたしと頭の中の洵が、重ならない。
そうして鏡とにらめっこしていたら、個室から鼻をすする音が聞こえてきた。
耳を澄ますとしゃくり上げているようにも聞こえる。
しばらく無視していたら、だんだん鼻水よりしゃくり上げの方が大きくなってきたので、少し迷った後、個室のドアを二度ノックした。
「……可憐? 大丈夫?」
わたしが慎重に声を掛けると、可憐は最後に言葉を交わした時と同じように、うわあと堰を切って泣き出した。
「どうしたの? 可憐、何で泣いてるの?」
少しの間、可憐は泣き続けていたが、やがてしんと声が止み、ごそごそと何かを仕舞うような音がした。
急に、ばたんと扉が開いた。
やつれた可憐がそこにいた。
手には、ビニールに包まれた細長い筒を持っていた。
「……汐音。どうしよう、私」
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