第12話 Europa

 流れる。漂う。浮遊する。自由なようで自由じゃない。

 委ねている。明け渡している。満たされている。薄まっていく。

 とても気持ちいい。

 大切なことはただ一つ。

 止まらない。

 わたしは祝福されている。


 天辺てっぺんにはあみ。四方八方、透明な糸が幾重にも重なる。

 網は絶えず編まれているかのように循環する。

 結び目には氷の粒がきらめく。

 合わせ鏡のように無数の光が交錯こうさくする。

 回廊かいろうの奥へ。

 わたしは光に導かれる。


 空間が開けた。

 天頂を見つめていたはずなのに、視界が切り替わったように、今は下を見ていた。

 天の水底。

 スケートリンクを、わたしは見下ろしていた。

 本当は、スケートリンクなのかは分からない。

 前橋のリンクではなかったし、他のどのリンクとも違って見えた。

 凍結した湖なのかもしれなかった。

 とにかく、そこは表面が凍っていて、上にはじゅんが立っていた。


 洵は止まっていた。

 だめだよ。

 思わず、わたしは叫んだ。

 ここでは、止まっちゃだめ。

 あらがっちゃだめ。

 対峙たいじしちゃだめ。

 一対一では、だめなの。

 でも、洵にはわたしの声が届いていない。

 よく見ると、洵は動けないようだった。

 洵の脚には何かが刺さっていた。

 それは、無数のとげだった。

 透明なカッターナイフのようにも見える。

 氷のやいばが、肉をめった刺しにしていた。


 まるで痛みを感じていないかのように、洵は立ちつくしている。

 わたしはその遥か頭上で、浮遊していた。

 下に行こうとしても、宙をぐるぐる回るだけ。

 本当は旋回すらしていなく、目だけがきょろきょろ動いているのかもしれない。

 身体感覚は限りなく曖昧だった。

 自分の規模が分からなかった。

 ものすごく巨大な身体で、ものすごく遠い果てから洵を見下ろしているのかもしれなかった。

 洵は、黒い豆粒のように見えた。顔は見えなかった。


 わたしは呼びかける。

 洵。もういいんだよ。

 ここは、何も無い世界。

 だからとどまらないで。

 くさびを打つのはやめて。

 どんな痛みも、ここには届かない。

 ここは洵の世界じゃない。


 だからわたしの声も洵には届かない。

 隔てているのは距離や規模ではなかった。

 わたしの視界には透明な床がある。

 洵から見れば天。

 氷の断層。

 透明なのに、それがると分かるのは、声がはね返ってくるからだ。

 でも、本当は残響はわたしの頭蓋骨の中だけで、そもそも声自体、出ていないのかもしれなかった。


 洵、この世界を、



 そう言ったところで、目が覚めた。

 わたしはベッドの上にいた。

 隣を見ようとしたら、真っ暗だった。

 寝る前、わたしは暗いのが嫌いだから豆電球をつけておくのに、少しでも明るいと眠れない洵が、わたしが眠ったのを確かめて消すのだ。

 微かな寝息が聞こえてくる。

 隣のベッド。穏やかに眠っている。


 今も、洵は氷上にいる。

 夢の中で、わたしがいない氷上に。

 でも、洵は気付かないだろう。

 ずっと、気付くことはないだろう。


 わたしは、暗闇に目が慣れるのを待った。

 けど、いくら待っても慣れることはなく、いつまで経っても何も見えなかった。

 自分が目を開けているのか閉じているのか分からなくなって、身体が重く、ついには動かなくなった。


 夜が鎮座している。

 身体が暗闇にさらされている。

 意識がみ出していく。


 あの時、洵に何と言おうとしたのか。

 言葉は、闇の中へと逃げてしまった。

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