第11話 未来

榛名はるな学院?」

 思いもかけない単語に、首を傾げる。

「榛名学院って、高崎の? 可憐かれん、榛名に行くの? 何でそんな遠くに?」

 

 すぐ近くに公立の中学があるのに、どうしてわざわざ。

 あそこは私立だから受験をしなきゃいけないはず。それに、電車で通うなんてめんどくさい。


「……汐音しおんは、行かないの?」

 初めて疑問を抱いたというような訊き方だった。

 本当に、わたしが一緒に榛名学院へ行くと信じてたのだ。

 見開かれた可憐の目を見て、睫毛まで薄茶色だ、と思った。


「普通に、三中に行くよ」


 今度こそ、はっきりと可憐の顔が歪んだ。

 空気が一気に張り詰める。沈黙が場を支配した。


「……群馬で」

 震える声で可憐が切り出した。


「スケート、本気でやりたい子は、みんな榛名に行くんだよ。群馬だけじゃない。神宮とか新横とか……仙台とか北海道からだって、榛名の専用リンクに憧れて、引っ越して来る子、たくさんいるんだよ」


 目がほんの少し潤んでいるように見えた。

 でも、そんなの知らない。わたしには関係ない。

 奥歯を噛みしめる。

 焦りはいつの間にか、苛立ちへと変わっていた。


じゅんは、どうするの?」

 ふと、わたしは遠くの洵に言葉を投げた。

 洵は目を見開いた。


 おれ?


 わたしはうなずいてみせる。

 少しの間、洵はうつむいていた。けど、すぐに顔を上げ、


「おれも、榛名行こうと思ってる。まだ父さん達には話してないけど」

 凛と、洵は答えた。迷いの無い顔をしていた。


 なにそれ。

 なんなの、これ。

 一体どうなってるの。

 頭の中のぐるぐるが止まらない。


 高木さんが一つ咳払いをした。

「榛名は、スケートの名門ですもんね。入江いりえ瑞紀みずきさんの母校だし」

「はい。私、小さい頃からずっと入江さんに憧れているんです」

 ぱっと明るさを取り戻した声で、可憐が言う。


 ……誰、それ。ていうか、そんなの初めて聞いた。


 わたしはスニーカーの爪先を凝視している。可憐のトウピックが視界の隅にちらつく。

 神経質だと言われる。

 けど、エッジは蝶の羽根だ。長く地に触れるとだめになる。

 視線を奥へとスライドさせる。

 ……先生も、洵も。

 カバーを付けてるとか関係ない。

 みんなスケート靴で地上を歩きすぎだ。


「じゃあ、可憐ちゃんの将来の夢は、やっぱりオリンピック?」

「そうですね。できれば、入江さんと同じ色の……金メダル、取りたいです。でもその前に、まずは全日本ノービスで優勝して、全日本ジュニアにも、絶対出ます」

「汐音ちゃんは?」


 ずっと、わたしは下を向いていた。頭が重くて、重力のなすがままに背中を丸めていた。


「将来の夢。どんなスケーターになりたい?」


 将来。

 なんて、考えたことがない。

 ましてや夢なんて。


 わたしは未来を信じているけど、わたしの未来は信じない。

 大人になったわたし。働いているわたし。

 結婚して、子供を産んで、三十歳、四十歳、それから先もずっと。

 それって、ただの線だ。

 今、ここから線を真っ直ぐ延ばして、一つの点を指定する。

 それをみんな未来って呼ぶのか。

 そこへの思いを夢っていうのか。

 それって、いったい何を考えていることになるの。


 だって、今しかない。今がずっと続くだけだ。

 ただ氷の上で。今から今へとずっと。

 でも、そんなこと、絶対伝わらない。

 誰にも分からない。

 噛みしめた唇が、痺れていた。


 痺れを切らした高木さんは、くるりと身体の向きを変えた。

「君は?」

「……おれですか?」

「そう、君」


 洵は少しの間考え込んだ。


「え、これ使われるんですか?」

「ううん、ただの個人的興味」


 再び、洵は考え込む。一度、喉を整える音がした。

 わたしは唾を飲んだ。


「夢、って言っていいのか分からないんですが」

「いいよいいよ」

「ずっと、スケートを滑っていたいです」

「ずっと?」

「はい。なるべく長く」

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