第3話 回路(氷上)

 地上に氷上のものは持ち込めない。空気が一番そう。

 わたしは肺の底から息を吐ききって、リンクを降りた。

 ……この瞬間が一番憂うつでたまらない。

 足元からざわざわきて、ずしり。

 重力はシダ植物。根に絡め取られないよう、貧乏揺すりで振り払う。


 定位置にぶら下げてあるはずのエッジガードが見当たらない。

 きょろきょろしてたら、見慣れた水色のプラスチックが目の前に差し出された。

「またやっちゃったんだね、汐音しおん

 一足先に休憩に入っていた可憐かれんは、あきれ顔でわたしを出迎えた。

 途端にばつが悪くなって、えへへと笑う。エッジガードを受け取って付けるとすぐにベンチに座った。

「あんなに怒ることないのに。最近、じゅん必死すぎ」

 可憐の表情がわずかに曇ったような気がした。

 けど、ジャーンとブラスの音が鳴って、わたし達の視線は氷の上へと移った。曲掛けが再開された。


 右腕は頭を抱え込み、左手は高く後方へと伸ばす。思わず見惚れる真っ直ぐなライン。

 でも、くるりと回って滑り出すなり、洵の足元はぐらりと揺れた。エッジが全然氷に噛んでない。力まかせに漕いで、加速を試みる。

 洵のクロスにはいつも焦りの影が付きまとう。


「トリプルアクセルって、どうしたら跳べるの」

 呟くように可憐は言った。

 

 助走に入る。ファーストジャンプ、ダブルアクセル。軌道に入るスピードが足りていない。転ぶ、とわたしは直感した。


「光に飛び込むの」


 飛び上がり損ねた洵は、あっけなく尻から氷面に叩き付けられた。

 可憐が息を呑むのが聞こえる。

 わたしはその一歩手前、離氷の残像を見ていた。振り上げた足がハードルを引っ掛けたように見えた。

 転び慣れている分、立ち上がるのも早い。

 顔を上げた時の食い入るような目に、心臓がどくんと鳴った。

 黒いスパッツが氷の削りカスで白くなっている。一粒一粒が発光しているようにも見える。


「光?」

 可憐は目だけでちらりとこっちを見る。

 うんと頷きながら、わたしはかかとと爪先を交互に揺らす。重力の根が両足に絡みついていた。

 太ももが重い。早く向こうへ行きたい。


「消えちゃう前に飛び込まなきゃいけないの」


 次はトリプルフリップ。これは大丈夫、だと思う。力がいい感じに抜けているように見える。洵が一番得意なジャンプだ。


「なにそれ。ジャンプの時、光が見えるってこと? どこに?」

「あのへんかな」

 わたしは洵のフリップの着氷地点を予測して指差した。

 けど、今度はパンク。

 踏み切りは悪くなかったのに、空中で回転軸がぶれて、一回転になった。


「……ダメだ。やっぱり見えてない」

「見えてないじゃん」

「飛ぶ人にしか見えないよ。飛ぶぞって思えば見える。や、見えるから飛ぶのかな? ……わかんない」

「わかんないの」

 可憐はくすくすと笑う。

 わたしは両手をぴったり合わせ、さっきからずっと念を送っている。


 洵。

 今度はあそこ。


 けど、それは全く意味が無い。

 今、わたし達の回路は絶たれている。

 なぜなら、ここは氷上だから。


 ――分かっていても、やめられない。

 多分これは、生まれる前からの癖だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る