第2話 視線速度
ごりごりとかき氷でも削るような、不細工な音が背後に近付いてくる。脱力したわたしは、振り向く気にもならない。
「
さっきはちゃんと甲高かったはずなのに、今の
最近、洵は時々こういう声になる。
わたしは、それが嫌い。
「……あとちょっとだったのに」
「は?」
洵がブレ―キを掛けて真後ろで止まるのが分かった。
「もう少しだったのに、今まで無いくらい近付いたのに! どうして邪魔するの」
やっと振り向いて、わたしは洵をにらみ付けた。
夜に見る鏡のように、真っ黒な瞳がそこにあった。
ばちっと合った瞬間、わたしの身体は水面に引き揚げられた。天空の気配がしゅるしゅると吸い込まれて消えた。
ひそひそ声が、ざわめいている。
音楽が鳴っている。“レ・ミゼラブル”……洵の曲だ。
洵はすぐに眉根を寄せてにらみ返してきた。
「それはお前だろ。何なんだよ、いつもいつも。どうして邪魔するんだよ」
だって、と言いかけて口をつぐんだ。
……だって、洵には見えない。洵には分からない。
「二人とも落ち着いて」
シャッと鋭い音を立てて、
美優先生はちょっと、と言ってまず洵を遠ざけると、くるりとわたしの方に向き直った。長いポニーテールが揺れる。そのしなやかさとは対照的に、美優先生の表情は険しかった。
「汐音ちゃん。洵くんの言う通りよ。人の曲掛け中はジャンプ禁止って、何度も言ってるわよね」
唇を固く結ぶ。
見えてしまえば関係ないのに、と思う。
あの光が。見えてしまえば、飛び込まずにはいられないはず。
美優先生は小さくため息をついた。
「時間が無いのよ。次のバッジテストまで、もう二週間を切ってるの」
美優先生は焦っている。
ノービスA男子の選抜合宿参加条件、六級を何とか洵に取らせたいのだ。
洵はこの合宿に妙にこだわっていて、今年こそはと意気込んでいる。
わたしは全く興味が無い。なんなら、わたしの持ってる参加資格を、洵にあげてもいい。スプリングカップなんかテキトーにやればよかった。――でも、あの時もちょうどさっきみたいに光が見えて、ダブルの予定のアクセルをトリプルで降りていて、再構成に気を取られているうちに、気付けばノーミスフィニッシュ。優勝していた。
「じゃあ、わたしの曲掛けの時間、洵にあげる」
唐突に思い付いて、わたしはぴっと右手を挙げた。
「何言ってるの、そういう問題じゃないでしょう」
ぴしゃりと美優先生は言う。ナイスなアイディアだと思ったのに。
「先生。いいです、おれはそれで。長く滑れるなら何でも」
洵が左手を挙げて言った。
ほらね。ふふんと笑ったわたしに、洵は鋭い目を向ける。
「汐音。お前は外に出てろ」
「えーっ、やだ」
「次アレやったらマジでキレる」
その目線がわずかに水平じゃないことに、突然わたしは気付いた。
肩の位置がほんの少し高い。
「ねえ、背伸びた?」
「は? 何急に」
「何だっけ」
洵ははあーと長く息を吐き、耳の後ろをかくと、意を決したように顔を上げた。
目線は、ちゃんと水平だった。
瞬きをする。気のせいだったのかもしれない。
「おれの曲掛け中は、外に出て。おれも、お前の曲掛け中は、外に出るから」
「分かった。いいよ」
いつの間にか、口がそう言っていた。
わたしの言葉に洵は小さく頷くと、淡々とした足取りでリンクの中央へ戻っていった。練習着に包まれた黒ずくめの身体は、白い氷の空間から切り抜かれたように浮いている。その背中を、しばらく見ていた。
美優先生は手を叩いて、もう一度最初から、とリンクサイドのアシスタントに指示を出すと、すれ違いざまにこそっと言った。
「素晴らしいジャンプだったわ。洵くん、本当は汐音ちゃんのアクセルが大好きなのよ」
ぽん、と背中を叩かれた、その場所からものすごい勢いで砂粒が広がった。胸の温度が急降下する。皮膚だけ残して身体が真空になった。
――本当は?
何、それ?
好きとか嫌いとかどうでもいい。
わたしに、洵のことを説明しないで。
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