第36話 Can you hear me?
曲掛けで、ランスルー。
スケーティングに全力を懸けて、フリーの四分を走り抜ける。
スピンやジャンプを入れるのは後だ。
とにかくそれだけ繰り返す。
なぜなら俺には、スケーティングスキルが足りない。
肺活量が足りない。
筋力が、柔軟性が、持久力が。
足りない全てに、モヤは群がる。
だが、一番足りない物は何だ?
欠落の空洞を埋め尽くす、金色の
邪魔だ、どけ。
俺は確かめなきゃいけないんだ。
俺が切り捨てた物、忘れ去った物、失った物。
……
そこにいるんだろ。俺のことは何でも知っていると言ったな。
答えろ。
お前は、その正体を知っているはずだ。
『……ダメだよ、アニキ。自分で気付かないと、永遠にあの子を失うよ』
あの子って誰だ?
トーマのことか?
……あいつは、一体何者なんだ。
イデオローグがビートに乗る。
『お前という人間は、財布の中身でなければ、着ている服でもなく、乗っている車でもない』
……じゃあ、俺は、一体何者なんだ。
体中の傷が
現在進行形で痛む
フルッツの矯正。人よりずっとスケートが下手で、数え切れないほど転んだ。
……何をビビッていたんだ。
怪我なんて、一度や二度じゃないだろう。
今ここにある傷から、もう見えなくなった傷まで全部。
痛みは俺を引き裂き、再び俺を取り戻した。
そして全ては、胸の手術跡に
エッジで氷を踏みしめる。
這い寄る
返り血のように
……俺は、傷で出来ている。
『確かな物など何も無い、全ては変化し、一瞬で崩れ去る』
マイムで足を止め、身体ごと崩れ落ちてみせる。
だが、それも一瞬。
溶け落ち、形を変える氷は、長く足を止めることを許さない。
もう何ループも繰り返したランスルーで、身体は鉛のように重い。
だが、それでいい。
ここは氷上だ。
やることは一つ、止まるな。
呪文のように、ブラッド・ピットが繰り返す。
エコーが掛かった声は無限に増幅する。
『これはお前の人生だ。お前の、お前の、お前の』
……誰かの歴史の続きを紡ぐだなんて。
たとえ半身同然の妹だったとしても、それは土台不可能だった。
随分長いこと、俺は勘違いをしていた。
それなりに、重かったよ。
五年の歳月が削り上げた空白の、反転だ。
だが本当は、俺の手はまだ何も掴んじゃいない。
霞む視界の中、金色のモヤが求愛のように踊る。
最初に取り
ゴクリと唾を飲み、我に返る。
確かに、俺は飛びたい。
だが、お前らの力は借りない。
ターンの遠心力で、モヤを振り切る。
踏み切りは、いつだって一瞬だ。
予約、停止、コマ送り、巻き戻し。
全ての記録が無意味な一回性のジャンプを、俺は飛ぶ。
天から光は差さない。
光は自らの足場。着氷した足元にのみ宿る物。
だから、待つな。
ゴーサインは俺が出す。
チェッカーフラッグも俺が振る。
腹を決めろ。
これは俺の人生だ。
俺は、俺が俺であるために飛ぶ。
銀色の翼が羽ばたく音。
魂が呼ぶ声がする。
どこだ、トーマ。
俺ならここだ。
……俺は、ここにいるぞ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます