第37話 I'm always by your side.

 速度が臨界点を突破した。

 俺はエッジを思い切り倒し、氷の芯をえぐって飛び上がった。


 四回転サルコウ。


 胸を貫く一本の軸が、回転の重力を振り切り、氷上に刺さる。

 エッジが再び氷を掴む。

 氷面に閃光が走り、ヒビが入る。

 世界の殻が割れる。


 遙か深層、あるいは高層。

 俺は手を伸ばした先に、を見た。


 足元から螺旋らせんが逆流し、記憶はランダムに蘇る。


 全てのシーン。

 サブリミナルであいつが飛び込み、横切り、消え去る。


 そして逆流はあの日、初めてスケート靴を履き、氷に乗った瞬間で止まる。

 

 眼前に広がる、まっさらな風景。

 全ての始まり。

 もう一度生まれた日。

 目に光が宿る。


 俺は、俺に笑いかけられていた。



 完璧に、降りた。


 光の中、俺は全身が震え、音楽が鳴りっぱなしなのも忘れて、氷上に倒れ込んだ。

 モヤは完全に消えていた。


 ……天井が、高いな。



「ハッピーバースデー、霧崎きりさきじゅん

 ひょい、と覗き込むように、トーマが俺を見下ろしていた。


「……今日は、俺の誕生日じゃない」

 寝転んだまま、肩で息をして俺は言う。


「三度目の誕生日ってのも、悪くないだろ」

 屈託無く差し出された手に、息を呑んだ後くすりと笑う。


 ああ、そうだな。

 俺はトーマの手を取り、立ち上がった。


 ちゃんと、透けていないじゃないか。


「ちゃんと、笑えるじゃん。氷の上でも」

「……ああ。楽しくて仕方ないからな」


 自分の限界に挑むことが。

 不可能を可能に変えることが。

 だが、何よりも。


 ……朝霞あさか先生、ごめん。

 俺は嘘をいた。


 スケートを楽しいと思ったことが無いなんて、嘘だ。

 俺は、ただ忘れていただけなんだ。


 汐音しおん。やっと分かったよ。

 お前の言ってた意味。


 ……返事は無い。

 気配も無い。


 本当は、前から気付いていた。


 俺は胸の傷に手を当てた。

 もうちくりとも痛まない。


 また、さよならが言えなかった。


「……俺、本当に一人なんだな」

「お前は、一人なんかじゃないよ」


 呟いたトーマに、俺は正面から向き合う。


「ここは、本来転ぶのが当たり前の場所だ。妖精のように飛び、天使のように舞い降り、悪魔のようにたぶらかし、精霊のように現れては消える。……今俺の目の前に立つ、お前は何者だ?」


「俺はただのスケーターだよ」


 鏡の男は、不敵に笑った。


 氷上に、いつまでも俺は立ちつくしていた。



(第五章 終)

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