第34話 60×30、氷のリング

「……お前、腑抜ふぬけてんじゃないぞ。この間降りたのはマグレか。翼が欲しいって、あれは嘘か。今日中に、一回降りると俺に約束しろ」


 いつになく岩瀬先生は感情的だった。

 竹刀しないでも持ってたら追い立ててきそうな勢いだ。

 病み上がりに何てスパルタだ。

 俺は倒れ込んだまま、先生を睨み付けた。


「できないことは、約束できません」

 先生の目がギロリと俺を見下ろす。

「できないこと? お前にとってクワドはできないことなんだな?」


 そこまで言ってないだろ。

 思わず舌打ちする。


「じゃあ、俺はできないと思ってる奴にできないことを教えてたってわけか。くだらん。今日は終わりだ」


 先生は失望したと言わんばかりにコートをひるがえした。


 猛烈にやるせなさが湧いた。

 氷上に座り込み、去り行く背中に言葉を投げた。


「……ジャンプは、飛翔じゃないんでしょう」


 先生の足が止まる。

 俺は膝を抱え込む。


「四回転なんて馬鹿げてる。やっぱり俺には人間業とは思えない。……世界中が、よってたかって俺達フィギュアスケーターを生けにえにして、神様に捧げようとしてるみたいだ」


 ゆっくりと、先生は振り返った。

 直情的な色は消え、身震いするほど冷徹な目をしていた。


「スケートが神への捧げ物だとしたら、随分おめでたい話だ。……お前も、星と同じタイプか。氷の神への殉教じゅんきょうを良しとするような」


 重い声で、先生は言う。

 俺は氷面に爪を立て、足に精一杯力を入れて立ち上がる。


「俺は神を信じません。氷上に神などいない。いてたまるか」


 先生の唇の片端が、鋭角に上がった。

「……いいね。どれだけ腑抜けでも、お前は俺が見込んだスケーターだ。最後まで付き合ってもらわなくちゃ困る」


 先生はおもむろに煙草を取り出した。

 リンクの上で煙草を吸う人間を俺は初めて見た。

 禁煙、なんて百も承知だろう。

 煙をくゆらせながら、先生は言った。


「フィギュアスケートを、ただのスポーツとは思わないことだ。お前はもう気付いているはずだ、この競技の本質に。……本当のところ、俺達は神との殴り合いをするべきなんだよ。さしずめここは、60m×30mの氷のリングだ」


 煙草は、確かに先端が火で赤くなっているのに一粒も灰が落ちない。

 それどころか、煙は発生したそばから輝く銀色の粒子に変わり、先生の身体をオーラのように包んだ。

 俺は気が遠くなりそうだった。


「フィギュアスケートを、人間の手に取り戻す。……あの日、達也が消えてからずっと、俺はそういう闘いをしている」


 氷を睨み付ける目には、青い炎が燃えていた。

 灯明とうみょうを抱える火鉢のように。


「……溝口みぞぐちさんは、引退したんじゃないんですか」

「達也は消えたんだよ、文字通り。……氷に取り込まれてな」


 銀盤に、返したくないの。

 銀盤の、思い通りにはならない。


 入江瑞紀の高く低く振れる声が、雷鳴のようにフラッシュバックした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る