第21話 ドラゴン・タトゥーの女

「申し訳ありませんでした」

 早朝練習で、俺は岩瀬先生に頭を下げた。


「あんなの喧嘩のうちにも入らん」

 先生は俺を一瞥いちべつして、何も気にしていないという風に言った。


「……それより、見てろ。今から芝浦が曲掛けて滑る。あいつ、ショートの曲を変えた」

「入江選手のプログラムを滑るんじゃなかったんですか?」

「見れば分かる」


 俺達と反対側のリンクサイドに、朝霞あさか先生が立っていた。

 背筋を伸ばし、凜とした瞳でトーマを見守っている。


 トーマはリンクの中央に立ち、両翼で卵を抱え込む黒鷲くろわしのように背を丸めていた。

 

 海鳴りのように低いストリングス。

 風の音。

 猛烈に近付いて来る嵐のようなクレシェンドで、電子のビートが鳴り響く。

 胎動のように上半身を波打たせ、ベース音と共に両手を広げると、トーマは滑り出した。


 獣のような咆哮ほうこうで、「移民の歌」だと気付く。

 だが、女の声。

 それに、テンポがレッド・ツェッペリンより数段速い。


「……これは」

「トレント・レズナーによるカバーだな。ヘヴィメタルのアーティストだよ。『ドラゴン・タトゥーの女』の映画に使われていた」


 何層にも重なる雷雲を、縦横無尽に駆け巡る電子音。

 肉感的な女性ヴォーカル。

 本家よりずっと野蛮だ。

 まるで手当たり次第に男を誘惑しては蹴落とす、異端の女神。

 その使者の如く超越的無表情で、トーマはリンクを疾駆しっくする。


「芝浦は身体に染みついてるスピードが速い。だからエッジが先走る。星も随分手を焼いていた。だが、それを逆手に取れる音楽を手に入れたんだ。……それにしても、こんなのを見つけてくるとはね。俺はあの人を見くびっていたかもしれない」


 岩瀬先生は、対角線上に立つ朝霞先生を厳しい目で見る。

 朝霞先生は怜悧れいりな顔でトーマの滑りを検分していたが、その視線に気付くと、ほんの一瞬不敵に唇の端を吊り上げた。


 ……悪魔の微笑み。


 身震いがした。

 あんな風に笑うひとじゃなかった。


 トーマの回りに風が見える。

 雪が、氷が、暴風とともに押し寄せる。

 びりびりと足元がしびれる。

 立っていられない。思わず膝に手をつく。


 完全な無音の空間に、ディレイドの四回転サルコウが浮き上がった。

 

 ……これは。


「侵略だな」


 俺の思考と重なるように、岩瀬先生が呟いた。

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