第7話 トーマ
結局、そいつが姿を現したのは、四月も下旬に入った頃だった。
「うちのクラスに遅れて来た新入生? 転校生? がスケート部入りたいって。今日高等部のリンク割り当て無いけど、どうしよう? 先輩たちも伝統芸能鑑賞会でいないし」
いちいち多い「?」は全部絵文字だ。
もしかして、さっき隣の山崎が、他の女子とそわそわしながら話題にしていた奴のことだろうか。
「名前は?」
「芝浦刀麻くん」
シバウラ・トーマ。
心臓が強く波打った。
「俺、今日夜八時から一時間、リンク取ってる。連れてきて」
「個人練で取ってるんでしょ?」
「いいから連れてきて」
「りょーかい」
わざわざ見に他クラスまで足を運ぶ気にならなかったのは、その存在を氷上で確かめたかったからだ。
スマホをポケットに仕舞いながら、口元に笑みを浮かべていることに気付いた。
静かに胸が高鳴る。
試合前よりも高揚している自分が
その夜、リンクに着くと、がらんとしたロビーで一人スケート靴を履く男がいた。
そいつだ、と直感が告げていた。
ただベンチに座って
長い脚はあまりにも真っ直ぐで、まるで境目が無くそのままスケート靴が生えているようだった。
そいつは、俺が扉を開閉した音にも気付かず、靴紐を結び終わると、座ったままじっと窓越しにリンクを見ていた。
まるで
「……トーマ」
声に出したつもりはなかったのに、出ていた。
「あっ、霧崎洵」
振り向くなり、トーマは言った。
さっきまでの複雑な表情は消え去り、無邪気な笑顔で芸能人でも見つけたかのように俺を指差す。
心を構えていたはずなのに、素朴に呼び捨てされたことに対し、俺は自分を棚に上げて苛立ちを感じた。
「へぇ、俺のこと知ってるんだ」
腰を下ろし、いつものそぶりでバッグを置く。
わざと一つ分空けて座ったのに、トーマはずい、と隣に詰めてきて、
「世界ジュニアのフリー、テレビで見たよ」
と右手を差し出してきた。
俺はその手に一度視線を落とした。
こんなにも友好的な態度を前にしているのに、本能が、そいつと握手をしてはならないと警告していた。
俺は敢えてじっとトーマの顔を見据えた。
そして数秒見つめた結論として、苦手だ、と思った。
見ていると何だか不安になり、それはたちまち苛立ちに変わる。
その大元は目だと気付くのに、少し時間が掛かった。
髪より幾分色素の薄い瞳は、ウィスキーに浮かぶ曇りの無い丸氷に似ていた。
「……クリスティアン・ヴァルターは君の友達?」
ふい、と目を逸らして俺は訊いた。
そして口にしてから、なぜクリスのことを、と自分で自分を疑問に思った。
「誰それ」
宙に浮いた右手をポケットに戻し、トーマは言う。
俺は溜息をついた。
「フリー、テレビで見たんじゃないの? 金メダルは彼だよ」
「俺、君の演技しか見てないから」
トーマは俺の顔を見てニヤリと笑った。
握手をスルーされたことなんて気にも留めていないと言わんばかりに。
……調子が狂う。
「どうしてわざわざ前橋に行ったの? ここなら通年リンクがあるのに」
「……スピードスケートのクラブと勘違いしたんだよ」
トーマは恥ずかしそうに頭をかいた。
「……どういうこと?」
「俺、スピードもやってるから。ここにはスピードスケート部が無いって聞いたから、前橋にはあるかもしれないと思ってさ」
「……ここ、フィギュアのクラブだけど」
混乱のあまり、当たり前のことを口にしてしまう。
「知ってるよ。だから今日はちゃんと靴も持ってきた」
トーマは履いている靴を見せてきた。
……確かに、これはどう見てもフィギュアの靴だ。
スピードの靴はブレードがぐんと長いので、見間違えるわけがない。
フィギュアとスピードの靴は、作りもエッジの厚さも全然違う。
俺がスピードの靴なんか履いたら、まずマトモに立ってすらいられないだろう。
それを、両方やってるだと?
俺の頭はすっかりこんがらかっていた。
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