第5話 神の用意した綱の上で

 表彰式の後、控え室に戻ろうとすると、ドアの側にドイツ代表のクリスティアン・ヴァルターが立っていた。

「トリスタンとイゾルデ」の深緑色の衣装のまま、心なしか肌が一層青白く見える。


 クリスは俺の姿をみとめるなり、つかつか歩み寄ってきて、低く絞り出す声でこう言った。

「Have you ever seen Siva?《シヴァに会ったことはあるか》」


「Who?《誰?》」

 肝心の部分が聞き取れなかったので聞き返すと、


「Siva」

 と強い語調で言った。

 青というより水色に近いその目は、逸らすのは許さないと言わんばかりに鋭く俺の瞳をとらえていた。


「No,never. Is he your friend?《知らない。それって君の友達?》」

「Not a human being《人間ではない》」

 かぶせるように、クリスは言った。


 人間ではない。

 氷上でったモヤがフラッシュバックする。


 俺はしばらく無言でクリスを見つめた。

 薄いサファイアのような瞳から、次第に光が失われていくのが分かった。


「You performed the best of all skaters today《今日は君の演技が一番よかったよ》」

 虚脱したように俺の肩に手を置き、クリスは廊下の向こう側へ去って行った。


 ただならぬ雰囲気だったので身構えていたのだが……。

 褒められてしまった、チャンピオンに。

 面食らっていたら、いつの間にか真後ろに立っていた白河さんに背中を小突かれた。


「めっずらしー。クリスと何話してたの? 英語で」

「……シバ。シヴァ? ……って、何ですかね」

「そりゃー、神様だろ! グラブル、モンスト、パズドラ」


 ソシャゲのキャラか。

 俺は溜息をついた。

 ゲームをやらない俺には分からないはずだ。

 しかし、なぜそんなことをあんな真剣な顔で訊いてくるんだ?

 クリスってああ見えてオタクなんだろうか。


「白河さん、バンケでクリスにその話振ってみてください、きっと喜びます」

「無理無理。俺、英語苦手だもん。その点、霧崎はすごいよな。この上クワドまで身に付けられたら、今度こそ本当に立場逆転するよ」


「クワド……ですか」

 俺は目を見開いて、立ち止まった。


「何、お前考えたことないの?」

 振り返って白河さんは言う。

「はい。全く」


 三回転ですら、人間としてギリギリの行為だと思っている。

 四回転は、その領域を飛び出した者の所業だ。

 言わば、人外魔境。


 それを口にすれば、クワドジャンパーの白河さんは呆れ返るだろう。

 だが、事実俺はそう思うのだから仕方が無い。

 あんなにも不安定な氷の上を、薄いエッジに乗り、跳んで、回転して、降りる。

 まるで神の用意した綱渡りだ。

 本当に、俺達はとんでもないことをしている。


『トリプルアクセルは、神様からの贈り物なの』

 ……ああ、お前の言う通りだ。


 三回転は人間、四回転は神。

 ならば、三回転半は贈りギフトだよ。

 俺は、それを手中に収める。


 左胸が、ちくりと痛んだ。

 心臓に手を当ててみると、金箔のような残滓ざんしが宙を舞っていた。

 ……どうやら、俺はまだ勝ってはいないらしい。

 手で振り払うと、雪のような冷気に触れた気がした。


 クリスは、その夜ホテルのバンケットにも姿を見せなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る