第14話 1mm

「……貸靴でいいなら、って言うからさ、スピードの靴があると思ってたのに」


 カウンター越しにぶつくさ言う声が聞こえてくる。

 今日会ったばかりのくせに随分態度がでかい。


「うち、一般開放中はスピードスケート禁止だから靴も置いてないのよ」

「スピード禁止なんて帯広じゃ聞いたことないよ」


「郷に入っては郷に従え。はい、フィギュアの靴とホッケーの靴、どっちがいい?」

 私は27.5cmの靴を二足、カウンターに並べた。


「こっち。エッジの磨き方が、気合い入ってる」

 刀麻君は何の躊躇いもなく、フィギュアの靴を手に取った。


 私は息を呑んだ。

 そんなこと、ぱっと見ただけで分かるわけないのに。

 どうして、と訊きたい衝動を抑え、私はつとめて冷静に返す。


「……でしょうね。だって、それ私が昨日研いだやつだもの。フィギュアで27.5cmなんてめったに出ないから覚えてる。それ研いでたら、見てよこれ。うっかりエッジでザックリ。一体何やってるのかしら……教え子は世界デビューしてるっていうのに……私ときたら、馬鹿みたい」


 私は包帯でぐるぐる巻きの右手をかざして、おどけて見せた。

 うまく笑えていた自信は無い。

 もしかしたら、顔全体を不自然に歪ませただけかもしれない。


 いつの間にか刀麻君の顔からは笑みが消えていた。

 透徹した面差しで、手にしたエッジに舐めるような視線を這わせると、やがてゆっくりと口を開いた。


「……先生、エッジの厚さって知ってる?」

「3ミリくらいだったと思うけど……」


「そう。でも氷との接地面はもっと薄くて、何と1ミリ」

 そう言って、氷の底から射抜くような目で人差し指をピンと立てた。


「スケーターは氷に乗る時、たった1ミリのエッジに全ての体重を預ける。そこだけで、世界と接することができるんだ。……それを磨く仕事が、馬鹿みたいなわけないでしょ」

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