第10話 選定の門

 

 一ヶ月も経たないうちに、私の身体は氷上でまともに動かなくなった。


 十分に睡眠を取っていないのだから、当たり前だ。

 サボっているつもりはなくても、怠けている人間と同じような緩慢な動きをする私に対し、次第にコーチや仲間の目は冷たくなっていった。


 リンクに足を向けなくなったのと、精神科で睡眠導入剤をもらうようになったこと、どちらが先だったのかはもう覚えていない。


 薬はよく効いて、飲めば三十分もしないうちにぱたりと眠れるようになり、悪夢は姿を消した。


 私は、何だ、こんなことだったのかと思った。

 摂食障害の時と同じように、さっさと医療に頼ればよかったのだ。


 残る問題は、スケートへの態度だった。


 私は、いつからか、大学のリンクが怖くなっていた。

 そこには落伍者を哀れみ蔑む天上人が集う。

 しかし恐怖心の根幹は、リンクという場所の物質性そのものにあった。


 中でも一番畏れを抱くのは、あの門だ。

 通称、はるなリンク。

 その親しみやすい名前とは裏腹に、荘厳な門が立ちはだかる。

 年季の入った象牙色のマーブル模様に、得体の知れない文字が浮かび上がる。


 この門をくぐる者は大地にまつわる一切を捨てよ。

 これより先は、異なる秩序が支配する氷の世界。


 聖域への覚悟を問う波状の石段が、何段も続いていく。

 奥に坐すリンクは楽園か、それとも地獄か。


 この門は、選定の門。

 選ばれた者のみが、氷に受け入れられる。

 私は、選ばれなかった。


 

 私は大学を辞め、半年実家に引きこもった。

 通院以外は殆ど家でぼうっとしていた。

 フィギュアスケートの話題が入ってこないように、ニュースサイトは注意深くミュートした。

 新聞はスポーツ欄を避け、テレビもなるべく見ない。


 しかし、自室の窓を開けると入ってくる風が冷たくなり、榛名山の木々が黄色から赤に染まっていくのを見て、ふいに私は居ても立ってもいられなくなった。


 フィギュアスケートはオールシーズンスポーツだという説、あれは嘘だと思う。

 それならばなぜ、私の身体は冷たい空気に疼くのか。

 寒くなると人は鬱っぽくなると言うが、スケーターは逆だ。

 寒くなればなるほど、心は軽くなっていく。


 走りたい、と思った。

 痩せぎすの惨めな身体でも、睡眠薬が手放せない青黒いクマの目元でも、少しでも氷に近い場所に行かなければ。

 あれだけ氷に見放されてなお吸い寄せられている自分が滑稽に思えた。

 けれど、そうしないと私は今度こそ本当に死んでしまう。


 我に返ったように職探しを始め、運良くグランピア前橋のアルバイトにありついた。

 経験があるのだからと押しつけられたスケート教室の評判が存外良く、次の年度から契約社員に格上げされた。


 そして、更に一年後には上級者のみが集まるクラブ、前橋FSCの方も任されるようになり、最初に受け持ったノービスクラスで霧崎兄妹と出会った。


 会うたび変化し、成長する彼らを見守りながら、

「大丈夫、私はうまくやれている」

 そう自分に言い聞かせようとするときまって、


 「運命」

 と、例の声が耳元で囁く。


 それはフラッシュバックなんかじゃない。

 鳥肌が立つほど凍てついた吐息が、私の鼓膜を震わせる。

 たとえどんな光の下にいたとしても、それは一瞬で私をあの最下層へと引きずり堕とす。


 私の魂は、十年経った今でも変わらず、ずっとあそこに閉じ込められたまま。

 だから私はあれから一度も、大学のリンクに足を踏み入れていない。

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