第9話 冥府の湖

 

 とりあえずはシングルで復帰し、まずは関東ブロック大会へのエントリーを、と考えていた夏の終わり、奇妙な夢を見た。



 私は暗い森の中、道に迷っていた。

 

 もう何日も食べていないみたいに空腹でふらふらなのに、足を止めることはできなかった。

 まるで赤い靴の童話のように、スケート靴を履いた足が勝手に動いていた。


 ふいに視界が開け、ぴたりと足は止まった。

 皮膚はボロボロに剥がれ落ち、膝には釘か鉄条網かよく分からない金属片が幾つも刺さっている。

 こんなに傷だらけなのに、不思議と痛みは感じなかった。


 目の前には、分厚く氷の張った湖が広がっていた。


 その上は、血と汗と骨と吐瀉物が泥のようにまみれていて、ひどい臭いがした。

 思わず吐きそうになったが、喉の筋肉を締めてどうにか堪えた。


 寒風が吹き荒び、冷や汗が止まらず、私はがちがちと歯を鳴らした。


 「抗っても無駄だ」


 突然、声が聞こえた。


 ぜえぜえと息をしながら、顔を上げて声の主を探す。

 汚物に一面氷の膜を張らせた鉛色の空間には、見渡す限り誰もいない。


 蝙蝠の翼のような漆黒の闇に、不気味なほど大きな満月が浮かび、地上の全てを凍らせんとばかりに青白い光が降り注いでいた。


 声は続いた。


 「これがお前の運命なのだ」


 その声は、変声機に掛けられたように高く低く何重にも重なって、男のものなのか女のものなのかも分からなかった。

 ただ私の鼓膜の中で、止まないやまびこのようにいつまでも響き続けていた。


 

 恐ろしくも奇妙なこの夢を見たのは、一度きりだった。


 しかし、それから私は毎晩、まるで頭の中のチャンネルが切り替わってしまったかのように、様々な悪夢に襲われるようになった。


 それらはどれも分かりやすい悪夢で、ある夜はジャンプの跳び方を忘れてしまったのに出番が迫ってくる夢。

 またある夜はアイスダンスの演技中にリフトで足を踏み外して彼に冷たい目で見下される夢。

 いずれも、過去のトラウマを誇張したようなものばかりだった。


 しかし、一つ一つは安直な夢だと笑い飛ばせても、毎晩続くと、次第に身体が睡眠に対して拒否反応を示すようになる。


 私は恐かった。


 いつか、これら全ての悪夢を束ねる根源のようなあの夢に、再び堕とされてしまうんじゃないか。

 それは、殆ど強迫観念だった。


 目蓋を閉じるのが怖くなり、意識のシャットアウトの仕方が分からなくなった。

 暗闇が恐ろしくて夜通し覚醒を続け、明け方うっすらカーテンの隙間から光が入ってくると安堵し、ほんの束の間まどろむ。


 でも、そんなことは長く続けられなかった。


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