第4話 2018世界ジュニア選手権(録画)
(※作者註:一部、現状のフィギュアスケートのルールと異なる描写がございます。あらかじめご了承下さい。)
演技が始まった。
切々としたヴァイオリンのメロディーにピアノが寄り添う中、洵君は伏せていた睫毛を上げ、優雅に滑り出した。
最初のジャンプに入る。トリプルフリップ+トリプルトウループ。
どちらも余裕のある高さで、クリーンに着氷。
私は驚きのあまり、コーヒーをこぼしそうになった。
慌ててそれをすすって、さすが岩瀬先生、と呟いた。
コンビネーション、最初に持ってきたんだ。
しかも種類を変えて。
ここは元々単独のトリプルフリップで、コンビネーションは後半にトリプルルッツ+トリプルトウの予定だったはず。
そういえば、出国前、洵くんは左ふくらはぎの外側の張りが少し気になる、と言っていた。
おそらく、一年掛けたフルッツの矯正の影響が、今になって足に出てきたのだろう。
岩瀬先生はそれを汲み取って、構成を変えたに違いない。
まず、ルッツを安心して跳べるよう単独にする。
そして点数は取りこぼさないように、基礎点が一.一倍になる後半で跳ばせる。
ショートは演技時間が短い分、体力の心配も少ない。
全くもってベストな対応、ジャンプコーチの面目躍如。
榛名学院スケート部は彼をヘッドハンティングして本当に正解だ。
……私には、こんな思い切った判断はできない。
私なら、本人の意志を尊重するなどと無責任なことを言い、プライドの高い洵君は自ら得点を下げるのをよしとせず、結局従来の構成のまま試合に臨んでしまうだろう。
そして最後のコンビネーションを失敗しちゃったりして。
そう、先月の全中スケートの時みたいに。
私はぶんぶんと頭を振った。
一体何をネガぶっているのだろう。
現実の洵君は、あんなにも堂々と伸びやかに滑っている。
演技が終わり、私は胸をなで下ろした。
苦手なトリプルアクセルが両足着氷になってしまったけれど、転倒しなかったので御の字だ。
不安の種だったルッツも成功し、GOEの加点ももらえた。
そして何より、スピン。三つともレベル4を取れていたのが嬉しくて、演技が終わった瞬間、私は涙が出そうだった。
特に、二つ目の足替えコンビネーションスピンは、全日本でも全中でもレベル3認定になってしまったから、確実にレベル4を取れるよう連日試行錯誤したものだ。
あの努力が報われて、本当に良かった。
画面には、キスクラに座る洵君と岩瀬先生が映っている。
正教会の大聖堂を象った水色と金のパネルをバックに、凜と背筋を伸ばして言葉少なに頷き合っている二人は、まるでイコンのように静謐な雰囲気があった。
元々体格も顔立ちも似ている二人だけど、こうしてテレビ越しに見ると、口元だけわずかに笑みを形作るアルカイックスマイルが、年の離れた兄弟のようによく似ていた。
外部からは、彼らの間にはどんな感情の波も読み取ることはできない。
二人が座っている間だけは、キスアンドクライというより祭壇と呼んだ方が相応しい気がした。
この録画を見るまで、私は心のどこかで、本当は私があそこに座りたかった、という思いを消せずにいた。
けれど実際に見てみると、目の前の映像はあまりにも何も欠けていなくて、そこに私の入る余地が無いのは明らかだった。
目を閉じて、岩瀬先生の位置に自分が座ることを想像してみる。
……ちぐはぐな、出来の悪いコラージュでしかない。
すぐにその画を脳内から消去する。
全日本ジュニアですら場違いに思えて縮こまってしまった私には、世界ジュニアのキスクラは別世界のように遠く、直視できないほど眩しい。
私は、あそこに座る権利を放棄したのだ。
氷の世界には、闘う意志の無い人間の居場所などどこにもない。
私は得点が出るのを待つことなく、テレビを消した。
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