第3話 岩瀬基樹

 

 時計を見ると、朝の五時半を過ぎたところだった。


 一度目覚めてしまうと再び眠りにつくことができないのは、自分の性だ。

 身体を起こし、右手をかばいながら布団を出た。


 吐く息が白い。

 本当は布団にくるまったまま移動したいほど寒いけど、暖房は付けない。

 かわりに、いつ買ったのか思い出せないほど昔から着ている毛玉だらけのカーディガンを羽織って、分厚い靴下を二重に履く。

 少しでも光熱費を抑えたいという、貧乏独身三十女の涙ぐましい努力。

 それでも、BSとCSは解約するつもりはない。地上波では扱わない国際大会を放送してくれるから。

 私はテレビを付けてHDDから昨日の録画を呼び出した。


 世界フィギュアスケートジュニア選手権、男子ショートプログラム。


 早送りしながら、マグカップいっぱいに熱いコーヒーを入れて、せめてもの暖を取る。

 洵君の出番のところで再生速度を通常に戻した。


 茶色のシフォン生地にバルーンスリーブの衣装を身に纏った洵君が、リンクを半周回り、中央に立つ。


 霧崎洵(日本)、15歳。

 コーチ:朝霞美優、岩瀬基樹。

 全日本ジュニア二位。

「序奏とロンド・カプリチオーソ」(C.サン=サーンス)


 岩瀬先生より先に、私の名前が表示されている。

 私は洵君のメインコーチで、このプログラムも私が作ったものだから当然だ。


 でも、今彼に帯同しているのは私じゃなくて、岩瀬先生の方。

 リンクサイドに立つ岩瀬先生が一瞬カメラで抜かれる。


 二度の世界選手権代表、そしてソチ五輪代表の元トップスケーター。

 現役時代、演技後ファンから大量に花が投げ入れられるのを、私はいつもテレビで見ていた。

 国際試合の経験が殆ど無い私とは格が違う。

 確か私より三歳若かったから、今年で三十歳のはず。

 整った目鼻立ちに加齢の影は露ほども無く、細いアンダーリムの眼鏡を掛け、現役時代よりも知的な色気が増して見える。



「朝霞先生」

 あの日、珍しくグランピア前橋のリンクを訪れていた岩瀬先生が、ロビーで私を呼び止めた。


「霧崎と親御さんが、僕に世界ジュニアへの帯同を頼んできたんですが、朝霞先生は行かれないんですか?」

「ええ、私はこちらで仕事が残っていますから……」


 洵君に、岩瀬先生への帯同の打診を提案したのは私だった。

 私は岩瀬先生の顔を見れず、肩のあたりで視線を泳がせながら、いいコート着てる、多分カシミヤ、などと思っていた。


「霧崎をずっと見てきたのは朝霞先生でしょう。僕は彼を教えてまだ一年も経っていないし、朝霞先生が帯同した方がいいと思うのですが」

 岩瀬先生は意外にも食い下がってきた。


「いえ、私には……」

 その資格が無い、と言いかけて、やめた。

 心底そう思っているはずなのに、なぜか口にするのは怖かった。


「岩瀬先生と洵君、並んでるところ、テレビに映ったら絵になると思いますよぉ」

 言ってから、おどけた自分の声色に寒気がした。


 その時の彼の、顔。

 ぴくりとも眉を動かさず、眼鏡越しに凍り付く眼差しで私を見ていた。


「……まあ、朝霞先生がそうなら、僕が行きますよ」

「洵君を……よろしくお願いします」

 

 私は深く頭を下げたけど、岩瀬先生は何も言わず早足で去って行った。


 岩瀬先生は私よりも三センチほど背が低い。

 けど、しゃんと伸びた背筋は堂々としていた。


 私は本当に情けなかった。

 今こうして思い出すだけでも、背中を丸めて殻に閉じこもりたくなる。

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