第2話 霧崎洵のコーチ

「朝霞先生! どうしたんですかそれ?」


 カウンターに座っていた弥栄ちゃんが私を見るなり立ち上がる。


「エッジ研いでたらやっちゃった。ちょっと救護室行ってくるね」

「救急車呼んだ方がいいかも。私、呼びましょうか」

「やぁ、大丈夫大丈夫」


 若い子は大げさだなあ、と思いながらタオルを見ると、既に絞れそうなほど真っ赤に染まっていたので思わず目眩がした。

 ふらふらしながら救護室に行き、看護師の田島さんに処置をしてもらう。


「素手でエッジを研いだんですか? 手袋しなきゃダメでしょう!」

「……すみません」


 素手の方が感覚が伝わるんです、とは言い返せない。


「朝霞先生、もう十年目でしょう? しっかりして下さいよ! 洵君も遠いロシアの地で泣いてますよ!」


 や、まだ八年目で、四月で九年目になります。

 あと、世界ジュニア選手権が行われているのは、ロシアじゃなくてエストニアです。


 ……あくまで心の中で突っ込むにとどめる。

 田島さんは私を心配しているだけなのだ。

 厳しいのは言葉だけで、包帯を巻く手つきは優しい。



 貸靴カウンターに戻ると、弥栄ちゃんが私を待っていた。

「先生! 速報来ましたよ」


 弥栄ちゃんはどうやらツイッターの現地観戦組の実況を追っているようだった。


「霧崎洵、TES 37.86、PCS 33.4、総合得点 71.26! 現時点で……一位です! すごい!」

「……シーズンベスト更新だわ」


 弥栄ちゃんは、これは最終入りも夢じゃないですよ、とまるで自分のことのようにはしゃいでいた。


 一方私は、本来誰よりも喜ぶべき立場なのに、包帯でぐるぐる巻きになった手首を見つめながら、自分は何て不甲斐ないのだろう、と溜息をついた。


 そう、霧崎洵というスケーターのコーチとしては、あまりにも不甲斐なくて、頼りなくて、情けない存在。

 それが私だ。

 私みたいなインストラクターの下でどうして彼のようなスケーターが育ったのか、いまだに私は分からない。


 ……嘘だ。本当は分かっている。

 要するに、彼は天性のフィギュアスケーターなのだ。


 私のところに彼が来たのはただの偶然で、きっと誰の下でも彼は今のように活躍していると思う。

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