第三章 Ruiner 朝霞美優
第1話 エッジは刃物
ずきずきと右手首に走る鈍痛で、目が覚めた。
いつも意識が醒めると感じる吐き気が、今朝は無いことに気付く。
吐き気の無い朝なんて、どのくらい久しぶりだろう。
きっと、この痛みのせいだ。
ゆっくりと目を開けると、手首に巻かれた白い包帯が視界を埋めていた。
布団にくるまったままぼんやりと、しばらく見つめる。
頭の靄が次第に薄れていき、記憶が戻ってくる。
そうだった。
私はゆうべ、仕事中に怪我をしたんだった。
昨日は夕方から上武大アイスホッケー部の貸し切りだったので、貸靴カウンター業務の私は、端的に言って暇だった。
レンタルコーナーには、フィギュアとホッケー合わせて八百足もの靴がある。
日誌を確認すると、よく出る20cmから26.5cmは定期的に研磨されているけれど、27cm以降についてはここ一ヶ月ほど記録が無かった。
私は部屋の奥に行き、目に付いた靴を手に取った。
あまり使われてないからか革の部分は綺麗だけど、ブレードをひっくり返して見ると真っ平らで全くバリが無かった。
これじゃあインエッジもアウトエッジもあったもんじゃない。
もっとも、貸し靴を使うのは殆どが初心者なので、エッジを使い分けたスケーティングなんて誰もしないのだけど。
私は壁時計を見上げた。
貸し切りが終わるまではあと一時間以上ある。
私は27cm以降の貸靴の研磨をすることにした。
研磨と言っても、全自動の卓上研磨機を使って行う簡単なもの。
ブレードを溝にセットし、スイッチを入れると下の砥石が回転する。
私は一足一足、無心で研磨機に掛けていった。
靴を研ぐのは好きだ。
大地に馴染めず、氷上に居場所を求めた、人類の進化の一つの形。
スケーターの正体は、とどのつまりそれだ。
そんな生物の足場を支える靴を磨くというのは、すなわち孤独に寄り添うということ。
スケート靴の数だけ孤独は存在する。
その一つ一つに、感覚を研ぎ澄ませよ、その方向で間違っていない、と言い聞かせながら、私は今日も靴を磨く。
誰に届くわけでもないと分かっていても。
27cmをあるだけ研ぎ終え、27.5cmに取りかかろうと手に取ると、ブレードが全体的にザラザラするのを感じた。
よく見ると、後ろにほんの少しだけ錆がある。
私は迷った末、丸砥石とオイルを用意し、手でエッジを研ぎ始めた。
縦に何度も往復し、インとアウトのカーブを蘇らせるように。
摩耗して埋もれ、眠りについたエッジを、再び呼び覚ますように。
片方を研ぎ終わり、もう片方も。
そうして無心に手作業で研いでいたら、オイルで滑って砥石が手からこぼれ落ち、あっと思った時にはもう遅く、親指の付け根から手首にかけてざっくりと皮膚が切れていた。
「痛っつ……」
エッジは刃物。
当たり前すぎて忘れがちな事実が、傷となって眼前に現れた。
瞬く間に血が湧き出て、だらだらと腕を滴り落ちていく。
深く切りすぎて逆に痛くないのが怖い。
とりあえずハンドタオルで傷口を抑え、救護室に向かった。
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