第27話 おばあちゃん

 リンクを出た俺を、見慣れた白のレガシィが待っていた。

 運転席の窓を開けて、浪恵先生が顔を出す。


「帰るんでしょう。乗りなさい。それともまさか自転車?」

 いえ、と躊躇いがちに俺が首を振ると、


「同じ家に帰るのに、遠慮しても仕方ないでしょう」

 浪恵先生は溜息をつき、荷物を入れるようトランクを指差した。



 助手席に乗り、信号が赤になったのを見計らって、俺は口を開いた。


「浪恵先生。……俺、もう一度リンクに立ってもいいですか。選手として、もう一度」

「……とっくに気付いているはずですよ、洸一。あなたがそう決意するのを、私はずっと待っていました」

 浪恵先生は視線を前に向けたまま言った。

 目尻がほんの少し緩み、瞳が潤んでいるように見えた。


「ありがとう、おばあちゃん」


 浪恵先生は、無言で俺の手を握った。

 幼い俺を氷上へ導いてくれた手は、今も変わらず温かい。

 涙はもう出ないと思っていたのに、少しだけ俺は泣いた。



「……少なくとも私はね、『移民の歌』を気に入っていたのですよ。たとえ減点を受けても、あれは瑞紀が、プライドを持って滑ることができる曲でしたから。でも、五輪を前に、瑞紀は急に、あの曲はダメだと言い出したのです。私には分かりません。あんなに自信たっぷりに滑っていたものを、急に忌避するなんて。そして突然私の元を離れロシアへ渡り、選んだのは『シェヘラザード』……あれは、命乞いの歌です。殺されたくないがために一晩だけを生き延びる。そんなものがあの子に合っていないのは、誰の目にも明らかでした。でも、あれじゃなきゃダメなんだと。先生には分からない、と。……一体瑞紀には何が見えていたのか。何を恐れていたのか……彼女を蝕む病の源を、今でも私はずっと考えているのですよ」

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