第26話 ヴァルハラ
その時。
「0.6秒ですよ」
ビクリと身体を震わせて、俺は振り返った。
リンクの片隅に、芝浦が立っていた。
あまりにも自然に、我が物顔で腕組みなんかして。
……どうして。震える唇で呟こうとすると、
「どうして、なんて野暮なことは聞かないでくださいよ、先輩。俺はまだこういうことができるんです」
諦観すら含んだような声で、淡々と芝浦は言った。
「……どうして、君がここにいるんだ。俺が今夜リンクを取っていることは、誰にも知らせていないのに」
呆然と言う俺に、不思議だと言わんばかりに芝浦は首を傾げる。
「先輩、本当は気付いているでしょ。俺がいつでも氷の上にいるってことに」
「……つまり俺は夢を見てるってことかな」
混乱した頭のまま俺が呟くと、芝浦はふっと寂しそうな笑顔を見せた。
「先輩にとって、氷上は夢の世界ですか」
幻日環の眼差し。
どこまでも透明な光の弧に貫かれ、俺は首を振る。
「いいや。紛う事なき現実だ」
「ほらね、ちゃんと目覚めてる。だから、眼鏡を外せたんです」
芝浦には何も隠せない。
そこが氷上である限り、光の眼差しは全てを見通す。
俺は、細く長く息を吐いた。
「……0.6秒っていうのは?」
「ジャンプの滞空時間。先輩は俺と体格がほぼ同じだから、トリプルの滞空時間も同じだろうと思って。氷の声にどんなに耳を傾けたとしても、遮断される時間は必ず来ます。……世界からの遮断、それがジャンプ」
芝浦は軽やかにバッククロスで漕ぐと、ロッカーターンを踏んで、トリプルルッツを跳んだ。
力強く、鮮やかな音。
鋭い回転に目を見張る。
「ね、0.6秒。同じでしょ?」
俺は答えられない。ストップウォッチで計ったわけでもない。
だが、芝浦のジャンプは、踏み切り前の軌道も、離氷してから着氷するまでの放物線も、限りなく俺と似ている気がした。
「……聞こえないなら、見るしかないです。先輩は、踏み切りの時いつも目を瞑ってる」
記憶がフラッシュバックした。
全日本ジュニアで、彰と衝突した時。
自らの目蓋で視界を遮断した暗闇。
……あれも、ルッツだった。
氷の声が聞こえないなどと嘯きながら、本当のところ、踏み切りの直前、俺は目を閉じていた。
怖くて堪らなかった。
無音の宙に放り出されること。
着氷の衝撃で中身が溢れ出すこと。
凍り付いた過冷却の感情に囚われること。
……氷が、俺を、じゃない。
俺が、氷を、拒否していたんだ。
「着氷時のビジョンをイメージするんです。これから行くべき自分の軌道。そこから絶対に目を逸らさない。そうすれば、必ず光が現れる。道筋を指し示してくれる。……先輩には、もう見えてるはずですよ」
気付けば、芝浦の身体は光のヴェールに包まれていた。
聖霊のように舞い降りる、無数の金色の粒子。
芝浦は愛おしさを込めた指先で、使い魔のようにそれを弄んでいた。
「もっとも、俺はもうすぐ見えなくなるけど。でも、大丈夫です。俺にはもう言葉がある。この靴と一緒に、先輩が授けてくれました」
芝浦は静かに、そして力強く、俺の瞳を見据えて言った。
祝福を授けるように、オーロラの輪が芝浦を中心に、俺の足元をも巻き込んで螺旋を描いていた。
「……それは一度、人を傷付けた靴なんだ。黙っててごめん」
俺の告解を、何一つ驚かないという感じで芝浦は受け止めた。
そしてさらりと告げた。
「俺は先輩の眼鏡をわざと壊しました。黙っててすみません」
流石に驚かざるをえないはずなのに、俺は笑った。
わざとだなんて、気付かなかった。
芝浦。眼鏡、壊してくれてありがとう。
心の中で俺は言う。
言葉にしなければ伝わらない気持ちと、言葉にしたら消えてしまう気持ち。
二つを同時に、俺は抱き締める。
まるで雪みたいに光の粒は俺達に降り積もる。
それを見つめながら、芝浦は言った。
「『移民の歌』は、俺の歌だと思うんです。だから先輩の言う通り、母さんのプログラムをなぞってちゃ意味が無い。……俺は俺の『移民の歌』を作り上げてみせます」
氷雪と白夜の国からの使者。
新天地に至った大君主。
その横顔にはもう、鏡の国の住人の幼い面影は無い。
神が統べる新世界に思いを馳せる。
君のヴァルハラに、俺も手が届くか。
たとえ全てを失ったとしても。
今度は視力だけでは済まなかったとしても。
溢れる一切から、もう二度と目は逸らすまい。
全身全霊を捧げよう。
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