第25話 ダイヤモンドの在処

 キャンセルが出たリンクをその日のうちに押さえる。

 マネージャー特権。

 隙間時間に滑るのとは違う。百パーセント、自分だけのリンク。


 あれから俺は、入江瑞紀のピアソラメドレーを何度も見た。

 ブエノスアイレスの冬とオブリヴィオン、そしてステップシークエンスには、リベルタンゴが当てられていた。

 俺の一昨年のショートと同じ、ヨーヨー・マのリベルタンゴ。



 柔らかいチェロの音に乗って、俺は滑り出す。

 まだリハビリだ。ジャンプは除き、スピンのレベルは落とす。


 ステップとターンを織り交ぜて、俺は滑っていく。

 チェロにバイオリンが重なり、寄り添うようなデュエットはフォア。

 そしてアコーディオンが登場すると共に、バックで折り返す。

 音の流れに自らを組み込み、摩擦をゼロへと近付けて行く。

 空気抵抗をゼロへ。

 氷との摩擦をゼロへ。


 ふと俺は息を呑んだ。

 ……エッジが、軽すぎる。

 重力はどこへ行った? 


 今の俺は、深くエッジに乗っていない。

 だが、この感触は確かに氷のスイートスポットを掴んでいる。

 軽いのに放り出されない、たった一点で鉤爪が噛み合うような一体感。


 ……そうか。

 喜びと自虐、半々の笑みがこみ上げた。


 芝浦の言っていた、ロック。

 あれは、フィギュアスケートのダイヤモンドのことだ。

 最もスケーティングが滑るという、ブレード上の幻の一点。

 スケーターが生涯をかけて探し求める境地。

 本当に存在したなんて。


 芝浦のエアリーなスケーティングが、氷を通して俺に重なる。

 今なら分かる。

 あれは、エッジに乗れていないんじゃない。

 最も摩擦の少ない場所を見出し、乗りこなしていたんだ。

 こんなスケーティングがあったとは。

 教えているつもりが、いつの間にか教えられていた。


 アコーディオンの刻みと共にトウステップを踏む。

 ステップシークエンスの合図だ。

 音楽はフルアンサンブル。


 答えてくれ、と俺は思う。

 ランジの姿勢でスリーターン。氷に跪く。

 氷面がきらめくと共に、微かな吐息。

 俺はそれを逃さない。左足インでブラケット。

 熟した蕾がほころぶように音が弾け、金色の粒子が飛び散る。

 オーロラの羽衣。

 逃げ惑う衣擦れを追うように、ツイズル、ロッカー、カウンター。

 こぼれ落ちる輝きの雫に先回りして、ホップ、ウインドミル。

 今度はツイズルを逆回転。


 こんなにも美しく滑らかな肌触りが存在する。

 官能的と言うほかない。


 トウで氷のスイートスポットを叩く。


 答えてくれ。扉を開けてくれ。

 ずっと準備していたんだ。

 やっと俺は目覚めたんだ。


 ハイドロブレーディング。

 接近していく、俺と氷。

 どこまでも一対一だと思っていた。

 でも、俺は氷。氷は俺。

 本当は溶け合ってしまいたい。

 身体の奥底から衝動が突き上がる。

 コップの水も。涙も。音も。

 何もかも、溢れればいい。


 ジャンプを跳ぶつもりなんて無かった。

 だが、哀愁漂うギターの音を耳が拾った瞬間、俺はロッカーターンを踏み、左足をアウトエッジに倒していた。

 トリプルルッツのエントランス。

 力いっぱい目を瞑り、右足のトウを突いて跳び上がった。


 ……その瞬間、全ての音が消えた。


 最後の最後で氷の芯から裏切られたかのように、身体は回転軸を失い、シングルルッツに終わった。


 着氷の感覚が、既に余所余所しい。

 音楽から置き去りにされ、俺は失速していく。

 エッジが空回りする。


 踏み切りの直前まで確かに俺を祝福していたはずの氷の声は、離氷した瞬間、俺を世界から追放した。

 残ったのは自己満足の空虚さ。


 ……また俺は幻と戯れていただけだったのか。

 耳鳴りが始まる気配がする。

 膝に手を付き、目眩を堪える。

 本当に、俺の臆病癖は筋金入りだ。


 膜がたちまち身体を包み込み、俺は再び世界から遮断されようとしていた。

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