第19話 二年

 芝浦のフリーの曲が決まらない。


 目下頭を悩ませている朝霞先生に頼まれた音源を部室で探していたら、乾いたノックの音がしてドアが開いた。

 振り返ると、コンパルの道具を返しに来た霧崎だった。


「熱心だね」

「別に」

 青いバケツには、根元が錆び付いた金槌と、釘。

 手渡しても、霧崎はすぐに立ち去ろうとはしない。

 ポケットに手を突っ込んで、明らかに何か言いたげな様子だ。


「……その、聞きたいこととかあったら、何でも聞いてよ。アドバイスくらいはいつでもできるし」

「洸一さん」

 え、と上擦った声を出した俺に、霧崎は刺すような視線を向けた。


「いつまで他人に自分のスケートを預けるつもりですか」


 放るなり飛び込んで落ちるような、重く鋭い言葉。

 息を呑むことさえできない。俺は、ただ硬直していた。


「靴を託したところで、自分のスケートはどこまでも自分のモノでしょう」


 奥歯をぐっと噛み締める。

 ……お前に、何が分かる。


 叫びたい衝動を膜に閉じ込め、俺はつとめて冷静に返す。

「……そうだよ。だから、俺はあいつに何も預けたりしてない。俺は履けなくなった靴を捨てて、あいつはそれを拾った。それだけのことだよ」

「言葉遊びは聞きたくない。要は、あなたは逃げているんだ」


 拳を強く握りしめる。

 ……どうして、ここまで言われなきゃならないんだ。

 二年前までは俺の足元にも及ばなかったヤツに。

 たった二年。

 だが、その二年の差がとてつもなく大きい。

 それが、俺と霧崎を決定的に分けた。

 一度氷上を降りた人間と、戦い続けた人間。

 逃げたヤツと、逃げなかったヤツ。


 霧崎は、妹が死んでも、スケートをやめなかった。


「……お前は正しいよ、霧崎。でも、俺は戻れない」

 行き場を無くした拳に、爪を食い込ませる。


「人一人のスケート人生を断たせた奴が、氷上に戻れるわけないだろ」

「寒河江彰はスケートをやめてなんかいない」


 強い眼光で、霧崎は言った。

 言葉が聞こえて意味を捉えるまでには、ラグがある。

 脳は震え、様々な言葉が飛んでは落ちた。


 右膝靱帯断裂。

 バヴァリアンオープン棄権。

 全中スケート欠場。

 寒河江彰が退出しました。

 メンバーがいません。

 トーク相手がいません。


「……どうして、お前がそれを。いや、それは本当か? 」

 混乱した断片的な問いに、霧崎はかすかに頷いた。


「去年の夏、トロントの合宿で俺はあいつに会ってます。コーチにしごかれながら、ストローク練習ばかり延々と何時間もやってました。ジャンプは無理そうだったけど、そんなことは問題じゃない。何度転ぼうが、這いつくばってでも氷にしがみつく。あいつがやってたのは、そういうスケートでしたよ」


 言われてもすぐに信じられないのは、姿を思い描けないからだ。


 この一年半、俺は無意識のうちに脳の回路を遮断していた。

 スケート靴を履いた彰の姿を、なるべく想像しないように。

 もう二度と叶わないものを思い描くのは辛いから。

 多分それは、眼鏡を外して氷上に立つ自分の姿よりも、想像してはいけなかった。


 がしゃり、と頭の中で枷が外れる音が響く。

 床を見つめて立ちつくす俺に、霧崎は溜息をついた。


「洸一君には内緒にして、って言われてたんですが。最近の洸一さん見てたら、ちょっと黙ってられませんでしたね。次会う時は氷上だから、だそうですよ。……俺に言えるのはここまでです」

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