第18話 旧世界

 芝浦のエッジワークは、瞬く間に変化していった。


 浮遊するようなスケーティングは相変わらずだが、ディフィカルトターンを回る時には、エッジで厳しく全身をコントロールしているのが分かる。

 結果、速かったスケーティングは更に速くなり、大きかったリンクカバーは、ますます密になる。


 二刀流、という言葉が頭を過ぎる。

 フィギュアとスピードの二刀流。

 だが、フィギュアだけを拡大しても、芝浦はやはり二刀流だ。


 無風のはずのリンクで風に乗る軽い滑り。

 そして、深いエッジで氷を掴む力強い滑り。


 俺は耳を澄ます。

 閉塞感は消え、多彩な音が再び宿り始めている。

 確かに戻り始めている、滑りのツヤ。

 追放を拒否し、コントロールを試みるエネルギー。



 一週間、二週間と経つにつれ、芝浦に触発されて、自主練中にコンパルソリーをやる選手が増えた。


 それにしても、霧崎に道具を頼まれた時には流石に面食らった。

 昨シーズン、全日本ジュニアと世界ジュニアの表彰台に立ったあの霧崎が、リンクの片隅に釘を打ち、糸を張って、即席のコンパスで円を描く。

 そして何十分もの間何度も同じ軌跡を求めて滑り続ける。

 一通り練習を終えると、バケツの水に雑巾を浸し、氷面を擦り、傷跡を消していく。

 そうして氷に跪く姿には、まるで修験者のような厳かさがあった。


 霧崎のスケートに、天性のモノは何一つ無い。

 天才の妹を持った凡庸な兄。

 その評価を、俺は今も変えるつもりはない。


 だが、霧崎は自分が何を持っていないのかに敏感だ。

 天才はえてして自分の持っているモノに無頓着だ。

 霧崎の妹がそうだったし、芝浦もそう。


 だからこそ、凡人の自分にはどこまでが手の届く範囲なのかを確かめずにはいられない。

 その点で、多分霧崎は誰よりも貪欲だ。

 霧崎は、一つ一つ課題を進めていく。

 エッジワークを全て洗い直すように、そして芝浦を追撃するように。


 しかし、気持ちの上では芝浦を追っていても、実際に霧崎が目で追うのは、芝浦を教える俺のエッジだ。

 鋭い視線がヒリヒリと痛い。

 あれは、闘い続けてきた人間の目だ。

 氷上をテリトリーとする、スケーターの目。


「……にしても、この靴本当にいいですね」

 飛び込んできた芝浦の言葉に、俺は我に返って顔を上げる。

 少し引き攣った顔をしていたかもしれない。


「そう?」

 と小声で呟いて、芝浦の足元にぎこちなく視線を落とした。

 気に入ってもらえるのに越したことは無いが、曰く付きを押しつけた罪悪感はまだ胸に残っている。


「何て言うのかな……ロックが噛み合うっていうか」

「ロック?」

 聞き覚えのない単語に、俺は首を傾げる。


「喩えがスピードスケートになっちゃうんですけど」

 前置きして、芝浦はゆっくりと話し始めた。


「スピードのブレードって、真っ直ぐじゃないんですよ。刀の反りみたいに弧を描いてる。コーナーを回るために、ほんの少しだけ弧がキツく作られてるんです。それをロックって言う。で、ロックと氷が噛み合う所って、一点だけなんです。面じゃなくて、点。千分の一ミリとかの世界。その一点で氷を捉えて押すのが、一番速い。ズレた表現かもしれないけど……俺が言葉にするなら、そうなるかな」


 俺は目を見張る。

 ついこの間まで、楽しい、面白い、という感想を絞り出すのがやっとだった男が、スケートを語り始めている。

 言葉の網を手に、広大な氷海の中、スケートの感覚を掬い始めている。

 それはまだ頼りない小さな動きだが、確かな分節が空気を震わせ、俺の肌をも押し返していた。


「……そうだったね。君は少し前まで、そういう世界で生きていたんだった」


「実は、ちゃんと言葉にできたのは今が初めてです。少し前までは何も考えずに、ただ氷に乗れてればいいやって思ってましたから。実際、上手く乗れてたし。でも、もうそれじゃダメなんですよね。だって聞こえちゃったから。先輩の言う、氷の声ってやつ。聞こえたらもう、聞こえる前には戻れません。分かりたいって思うし、逆に分かってほしいとも思う。分かろうとしないまま振り切るのは、もうごめんだ」


 強い意志を込めた口調で、芝浦は言う。

 硬質な視線で氷を見つめながら、もう一人の自分に言い聞かせるように。

 多分それは、過去の自分だ。

 鏡の世界で生きていた、かつての自分。


 きっとその鏡は、このリンクより遙かに大きく、まるで凍てついた湖が空をそのまま切り取るように、不条理なほど透明だったはずだ。

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