第17話 友達にはなれない
芝浦には毎日一時間、コンパルソリーの練習が課されることとなった。
釘と糸のコンパスで真円を描き、その上をなぞりながら軌道を身体に刻み込む。
コンパス無しで規定の図形が描ければその課題はクリア。
驚いたことに、俺の靴を履いた芝浦は、翌日にはサークルエイトを難なくパスしてしまった。
ちょっと早すぎやしないか。ろくに練習もしていないだろうに。
しかし、遠くから引いた目で見ようが、近くでしゃがみ込んで見ようが、正円は二つ並んでいる。
「……合格。昨日と比べて何か意識したことは?」
「特に何も。……や、この靴ほんとぴったりだなって思ったかな」
脳天気な口ぶりに、言葉を失う。
無邪気にリアクションを待っている芝浦に、俺は溜息をついた。
「芝浦。確かに君は上手いよ。センスがあるっていうのかな。きっと君は今まで、言葉や理論はすっぽ抜かして、感覚だけで滑ってきただろ」
「そうですね。俺、氷の上では動きたいように動けるし」
思わず、顔が歪んだ。
それは、万能感などという感覚でもなければ、比喩などというレトリックでも無いのだろう。
あまりにも無防備に曝け出された、スケーターのイデア。
「……けど、そのまま行けば、君は死ぬ」
今度は、俺の言葉に芝浦が顔を歪める番だった。
……なんだ、ちゃんと覚えているじゃないか、なんて。
これは一種の賭けだったんだけど、ちょっと意地が悪すぎたかな。
だが覚えている以上、最後まで付き合ってもらう。
俺は芝浦の目を見たまま、片眉を上げる。
「空白を埋めたいって言ってたね。でもそれは何のため? 誰のためだ? 母親のプログラムを母親と同じように滑って、それで本当に君の空白は埋まる?」
芝浦は固い顔つきのまま、しばらく俯いていた。
「……分かりません。ただ、フィギュアに戻るなら、何となくそうしなきゃって思っただけだから」
「分からなくてもいいよ。けど、何となくはダメだ。本当にその空白を埋めたいのなら、君自身がちゃんと言葉にしていかなきゃ」
そう。だからコンパルソリーなんだよ、芝浦。
内側からのスケートの再構築。身体言語の翻訳作業。
全ては、氷に伝えるために。
俺は芝浦の背中をそっと押す。
「目を閉じて。感覚を読むんだ。君は今どこに体重を掛けている?」
「親指、かな」
「じゃあ、スリー。……どう? ずっと親指だった?」
「……いえ、ターンの瞬間、少し後ろ、踝の近くに移動しました」
目を見開き、芝浦は言う。俺は頷く。
「いいね。重心に乗れている証拠だ。でも、それを自覚的にやるのと無自覚でやるのとでは違うんだ。氷を押す意志を持っているのか、それともただ前に進んだだけなのか。一コマ切り取ったくらいじゃ差は出ない。でも、ステップを三つ、四つと繋げていけば、もう乗ってるスピードは全然違う。難しいターンをのろのろ踏むことに何の意味がある? ……ここは氷上だ。陸上とは別の世界なんだよ。滑走という運動の連続性に、スケーターはもっとこだわるべきだ」
スケーター。
水に浮く一円玉のような主語。
自分で発した声が、余所余所しい響きで返ってくる。
それって、誰のことだ?
……少し、饒舌が過ぎたかもしれない。
「……先輩?」
怪訝そうに覗き込まれ、俺は我に返る。
「ああ、ごめん。……だから、重心を読んでいくんだ。氷と身体が、引力で繋がる一点。加速する時、進行方向を変える時、足を踏み換える時。重心は絶えず変わっていくだろ。それを、どんな時でも読んでいく。……氷の声を聞くって、そういうことだよ」
すると、芝浦は少しの間顎を撫でながら宙を見つめた後、ぽつりと言った。
「それって、氷と友達になるってことかな」
「……何それ? キャプテン翼?」
昔読んだ漫画の一コマを思い浮かべる。
ボールは友達、怖くないよ。
「スピードやってた友達の口癖なんです。……俺、その言葉がすごく好きで」
芝浦は照れくさそうに微笑んだ。
意外にセンチメンタルなところがあるんだな。
俺は溜息をつく。
「氷は氷。人間じゃない。……だから、友達にはなれないよ」
ぴきり、と音が聞こえた気がした。
リンクに一筋、ヒビが入ったのかと思った。
だが、足元は何とも無く、目の前の芝浦だけが痛々しい表情を浮かべていた。
思った以上に残酷なことを言ってしまった気がして、俺の胸まで痛み出した。
慌てて首を振る。
だって本当のことだ。
氷は氷。別の生き物。
だから、いたずらに擬人化なんてすべきじゃない。
でも、と俺は足を止める。
「……でも、心が通じる瞬間はあると思う。丁寧に線を描けた時、よくエッジに乗れた時。ほんの一瞬だけ、分かり合えたと思う時がある。……本当に、一瞬だけどね。フィギュアスケートは、その一瞬一瞬の積み重ねだ」
芝浦は俺の言葉を無言で受け止めていた。
悲壮感は、まだ消えない。だが、その緩められた眉根からは、氷から何かを受け取り、何かを返そうとするパルスが見えた。
エッジを使わなければ、氷はどこまで行ってもただの氷のはずなのに。
一体何が見えているんだ、芝浦。
俺は肩を並べて、視線の軌道を一にしようと試みる。
エッジで軌道を描く。
預けた体重で氷は溶け、俺は少しだけ前に進む。
丁寧に描いた線を、祈りのように重ねていく。
たとえ揺れても震えても、もう一回転、もうワンステップ。
いつも、そればかり考えている。
一滴一滴、空から落ちてくる雫。
溢れ出すのを待ち構えている自分がいる。
だって俺は、ずっとそればかり考えていたんだ。
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