第11話 聖域
「何その眼鏡、滝廉太郎じゃん」
俺の眼鏡を見るなり、晴彦は眉を顰めて言い放った。
「星先輩、大丈夫ですよ、ちゃんとかっこいいです。……言っときますけど、湯川先輩は男子部員の中で今ダントツ最下位ですから、うちら的に」
女子マネの滝野さんは、途中で晴彦の方に向き直って唇を尖らせた。
部活対抗リレーの件で晴彦は相当恨まれてるなと思う。
結局、アイスフェスタの集団演舞の選曲権を交換条件に、リレーを女子に押しつけたから。
「あっそ。いいよ別に。元々俺は洸一の眼鏡は嫌いなんだよ。全然似合ってねーもん」
いつもみたく滝野さんにウザ絡みするのかと思いきや、真顔で言う。
「……そんなに似合ってないかな、コレ」
「だから気にしちゃダメですってば」
「ああ、部長とマネージャー揃ってる、ちょうどよかった」
朝霞先生がリンクサイドに合流し、サマートロフィーのエントリーメンバーについて確認した。
朝霞先生は、着任早々女子部員からの振り付け依頼が殺到していて、スケジュールの調整が大変そうだ。
昨季の霧崎のエリザベートの評判がとても良かったから。
全員は厳しいなあ、と先生がこぼすと、突然扉が勢いよく開いた。
姿を見せたのは、既に練習着に着替えた芝浦だった。
「先生!」
芝浦は俺の方には目もくれず、真っ直ぐに朝霞先生に駆け寄った。
「久しぶりね、刀麻君」
朝霞先生は眩しそうに目を細める。
「榛名学院スケート部インストラクター、朝霞美優。……へえ。先生、あそこ辞めたの?」
芝浦は先生の首に掛けられていた名札をひょいと手に取って言った。
「辞めてない。フリーになっただけ」
朝霞先生は芝浦の手から名札を取り返す。
芝浦はそれを逐一観察するような目で見ながら、ふうん、と意味深に笑った。
「やっぱりな。絶対そうすると思ってたよ」
朝霞先生はばつが悪そうに、唇を結んで黙り込む。
……やっぱりこの人は生徒に舐められる傾向があるな、と俺は思う。
親しみやすさと舐められやすさは紙一重だ。そのことに、朝霞先生は気付いているのかどうか。
しかし、それにしても芝浦の態度はあまりに馴れ馴れしすぎやしないか。
「朝霞先生、芝浦と知り合いですか? 」
俺が割って入ると、
「ええ、ちょっとね。一度前橋で会ってるの」
「なーにがちょっとだよ。俺達運命共同体でしょ」
これまた意味深な言葉を口にしながら、芝浦は自然に朝霞先生の肩に手を掛けた。
その時だった。
さっきまで離れたところで阿久津と一緒にストレッチをしていたはずの霧崎がいつの間にか真後ろにいて、たちまち芝浦の手を引き剥がした。
「……先生に触るな」
聞いたことのない低い声で、霧崎は言った。
完全に目が据わっている。
青い炎のようなオーラに、その場の全員が凍り付く。
ただし、当の芝浦は別だ。
少しの間霧崎をじっと見つめ、やがて余裕たっぷりに手を振りほどいた。
「……俺、お前の指図は受けないよ」
「ここは榛名学院スケート部だ。先生にタメ口を利くな。ベタベタ触るな。お前みたいな奴がいると空気が乱れるんだよ」
こんなに感情を剥き出しにする霧崎は初めて見た。
俺だけじゃない。多分、部の全員がそう。
霧崎とは旧知の仲であるはずの朝霞先生まで、目を見開いている。
電気が伝うように、俺には分かってしまった。
なぜ霧崎と芝浦が殴り合いになったのか。
霧崎は、テリトリーを侵されて怒っている。それは殆ど動物的と言っていい怒りだろう。
芝浦の存在は霧崎の本能を煽るのだ。
そして理解するなり、俺の身体には膜が張る。
他人の生々しい感情を目の前にすると、俺は身構える。
うっかり影響されて、自分の中のモノまで溢れ出してしまわないように。
しばらく無言で二人は睨み合っていた。いや、睨んでいたのは霧崎だけだ。
ただ、芝浦は霧崎より随分背が高いので、目を合わせるだけで自然と見下す格好になる。それが尚更霧崎を刺激しているのは明らかだった。
何か言ってくれよ、と俺は朝霞先生に対して思っていた。
今この場を収められるのは、あなただけでしょうに。
だが、先生は固唾を呑んで二人の視線が交差するのを見ている。
……頼りにならない。
俺が行くか、それとも晴彦に判断を委ねるか。
迷っていたその時だった。
カツカツとゆっくりとリンク全体にヒールの音が響いた。
毛皮の擦れる音が近付いてくる。榛名のスケート部の人間なら、誰もが襟を正さずにはいられない音。
「洵の言う通りです。……朝霞先生。あなたは選手に対して、もっとはっきり線を引かないといけませんよ。ここは、榛名学院スケート部なのですから」
「おはようございます!」
晴彦に続き、皆の声が響き渡る。
「申し訳ありません」
朝霞先生は深く頭を下げた。
浪恵先生は一瞥して、よろしい、と無言で頷くと、今度は芝浦に向き合った。
「氷上は聖域です。スケーターなら、敬虔な態度で臨みなさい」
浪恵先生は毅然と告げた。
当たり前のことを揺るぎなく告げる声。有無を言わさず人の背筋を伸ばす、力のある声。
だが、それに対する芝浦の言葉に、俺の背筋はぞくりと震えた。
「俺の居場所です。聖域かどうかは俺が決める」
リンクを背に立つその姿は、あまりにも超然としていた。
ビョークのMVで見た、アイスランドの氷河湖がフラッシュバックした。
氷河が峻険と迫る、青く透明な湖。
それを、芝浦が背負っているように見えた。
思わず何度も瞬きをする。
眼鏡の縁が邪魔だ。一瞬、そう思った。
世界を閉じ込める額縁。
その中で、浪恵先生の唇の端がほんの少し上がるのを、俺は見逃さなかった。
「……本当にお母様とそっくりですね。はじめまして、芝浦刀麻君」
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