第10話 Contact

 一度だけ、コンタクトレンズを入れようとしたことがある。


 手術から三ヶ月後、医者の許可を得て、俺は初めてコンタクトを手にした。

 あの頃はまだ、競技に復帰するのが当然と思っていた。


 鏡を前に、指先に柔らかく透明なレンズを乗せ、もう片方の手で瞼を押さえ、瞳に近付ける。

 それだけのことだ。


 だが、瞳にレンズが触れるか触れないかのうちに、たちまち俺の目からはごぼごぼと涙が湧き出てきた。

 目からというより、身体の奥底から噴き出たと言うべき涙。

 水位はたちまち上限を超え、溢れて止まらない。


 怖い、と思った。

 このままではどこまでも溢れ、俺の身体ごと呑み込んでしまうだろう。

 息ができなくなる。

 鼻と口から吐き出される、大小の幾つもの気泡が見えた。

 それらは上へと昇っていく。

 でも、上ってどこだ? 


 喉のあたりを蛇口みたく閉め、一切を閉じ込める。


 天を仰いで呼吸を取り戻し、ハッと鏡を見ると、涙を流して肩で息をしている俺と、それを怪訝そうに見ている看護師。

 ピンク色のカーディガン。

 白い壁。

 FMラジオが小さなボリュームで流れていた。レディオヘッド。


 何度トライしても、瞳にレンズが装着されることはなかった。

 不思議なことに、怪我をした右目だけでなく、何でもないはずの左目も同じだった。

 溢れ出る涙、溺れる幻覚。

 それが肉体的な反応なのか、精神的な反応なのかは分からない。

 ただ、意味だけは分かる。

 拒否だ。


 目がコンタクトを拒否することと、氷が俺を拒否すること。

 そのゼロ距離の繋がり。


 これも罰なのだとしたら、神様はちょっと無慈悲すぎると思う。

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