第12話 榛名学院スケート部
「調査書を見ました。あなた、全中スケートのスピード部門で入賞経験がありますね? それも、三位と」
「……中二の時に、一度だけです」
何でも無さそうに芝浦は言った。
思わず晴彦と顔を見合わせる。
中二で全国三位って、やばくないか?
しかし、霧崎と阿久津は特別驚いた様子も見せない。朝霞先生も。
もしかして知らないのって俺達だけ?
「単刀直入に言いましょう。普通ならスピードでやっていくと思うんです」
浪恵先生の目が鋭く光る。
芝浦の喉仏が少し動いた。
「榛名のスピード部門は七年前に廃部になっていますが、あなたの力量なら一人でも復活させることが可能だと思いますよ。学校側もそれを歓迎すると思います」
先生が一息置く。
空気がしんと冷える。
女子部員達の柔らかなスケーティングの音が断続的に響き渡る。
「……そんなあなたが、なぜわざわざフィギュアスケートを選ぶのか。教えてください、あなたの覚悟を。榛名学院スケート部は、仲良しクラブではありません。ここにいるのは中等部から大学まで、明確な目標を持っているフィギュアスケーターだけです。目標の大きさは問題ではありません。何と闘うかは人それぞれですから。……私が日頃から彼らに問うているのは、目標の強度です。それがあなたにあるならば、入部を認めましょう。ここで成し遂げたい目標を、今私に言ってごらんなさい」
浪恵先生の言葉には、重みがあった。
タールが溜まるように胸が重くなる。
明確な目標なんて俺には無い。
死にたくないからここにいる、それだけだ。
息苦しい。早く、命の点呼を。
ぎゅっと目を瞑る。
呼び出さなければ。氷に潜む、絶対的なライン。
「……『移民の歌』を作ったのは先生ですか」
唐突に出されたプログラムの名前に、俺はハッと目を見開いた。
浪恵先生の両目蓋がぴくりと動くのが見えた。
「ええ、そうです」
少し間を置いて先生が答える。
「あのプログラムを、俺に滑らせてくれませんか」
「……なぜ、わざわざあれを?」
「母が捨てたからです」
透徹した瞳で、芝浦は言った。
先生の唇が息を呑むように動いた。
「……あのプログラムに関する映像、振り付け、記録の全て。あれだけ、どこにも残っていない。母さんが捨てたんです。俺は、スケートを通じてしか、あの人と分かり合えない。人間としてのあの人のことは、殆ど何も分からない。でも、スケートのことは何でも分かります。ジャンプの回転速度から一ミリのエッジのズレまで全部。……ただ、あのプログラムの所だけ、ぽっかり穴が空いている。俺は、その空白を埋めたい」
「瑞紀は、何と」
「何も。というかあの人、俺が言ってること分からないんじゃないかな」
芝浦は小首を傾げ、氷上へと視線を向けた。
浪恵先生は、険しさと戸惑いが入り交じった表情でしばらく黙り込んでいた。
「……いいでしょう。ただし、条件があります」
洸一、と浪恵先生は手招きした。
言われるがままに前に出る。
「今日からしばらく、彼にコンパルソリーを教えなさい」
俺が驚く暇も無く、まずはサークルを、と先生は耳元で囁いた。
「洸一は、瑞紀のステップを完全に再現できる、おそらく世界でただ一人のスケーターです」
世界でただ一人。
その言葉に、心臓が飛び出そうになる。
「ちょっと待って下さい。買いかぶりすぎです。それに、俺はもう選手じゃありません」
「知っています。けど、買いかぶってなどいません。できるんですか? それとも、できませんか」
浪江先生の強固な視線が俺を捉える。
張り詰めていく、俺の中の表面張力。
「……できます」
こんなこと、本当は皆の前で言いたくない。
でも、できることをできないと言うのはもっと嫌だ。
心が軋んで剥がれ落ちていく気がして。
感情は零れ落ちる。
氷上には、一度落としたらもう二度と拾い集めることができないモノが、確かに在る。
名前の見つからない、俺の感情。
浪恵先生は頷き、再び芝浦に向き直った。
「エッジワークとは、フィギュアスケーターだけに駆使することが許された特別な話法です。……刀麻。あなたは一ミリのエッジのズレも分かると言いましたね。洸一のスケーティングを見れば、嫌でもその認識を改めるでしょう。一度降りたスケーターが再び氷上に立つには、相応の対価が必要です。……刀麻。母親のプログラムで、洸一を超えてみせなさい」
「はい」
何の躊躇いも無い、涼やかな芝浦の声に、俺は揺れた。
心のコップ。保たれていたはずの温度と量。
それが、動き始める。
「ようこそ、榛名学院スケート部へ」
悠然とほころぶ、久しぶりに見た浪恵先生の笑顔だった。
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