第7話 Thoroughbred/Hybrid
深く息を吐き、俺は椅子に沈んだ。
すごいモノを見てしまった。文字通り、型破りなスケーターだ。
こんな選手を浪恵先生が育てたというのが、ちょっと信じられない。
浪恵先生は、伝統を重んじる指導者だ。これじゃまるで水と油じゃないか。
“五輪の直前に袂を分かった”
その言葉の真実味が一気に増す。
「野生児」と溝口さんは形容していた。その通りだと思う。
別の種族が、何かの手違いで人間界に生み落とされてしまったような。
ヴォーカル楽曲が正式に解禁されたのは今から三年前のこと。
……2018年の今なら、この演技はPCSで満点を狙えるかもしれない。
しかし、当時は当時だ。
事実、二ヶ月後の五輪で、入江瑞紀はショートを「シェヘラザード」に変更している。
それが本人の意志によるものなのか、周囲の思惑が絡んでのことなのか。
浪恵先生と入江瑞紀の決別に関係があるのか、無いのか。
ぐるぐる回っていた俺の思考は、ガチャリ、とドアが開く音で中断された。
「あ! 洸一いたいた。聞いてよ、ちなみに浪恵先生には内緒で頼む」
ずかずかと入ってきたのは晴彦だった。
「……いいけど、まだ何も聞いてないよ」
逸る晴彦に、俺は椅子に座り直しながら苦笑する。
「阿久津から聞いたんだけどさあ」
イライラした様子で晴彦は隣に腰を下ろす。
「昨日俺ら大宮に歌舞伎見に行ったじゃん? その間に一年男子の入部希望生が来たんだって。でも、そいつ霧崎と喧嘩して殴り合いになったらしい。で、さっきマジかって霧崎に訊いても、ガン無視。アイツほんっと俺のことナメてるからね。部長とも何とも思ってないよ絶対。揉め事起こしといて、報告義務とか頭の辞書にも無いんだぜ」
霧崎、と、殴り合い。
エラーとしか形容しようのない単語の組み合わせに、俺の頭はフリーズする。
「……それは、すごいな」
だから今朝、霧崎の唇が切れていたのか。驚きと納得が遅れてやって来た。
「まあ、すぐに岩瀬先生が来て、何とか収まったらしいけどな」
「岩瀬先生が? ……じゃあ、もう浪恵先生に伝わってても不思議じゃないな。でも、さっきの様子だとまだ何も知らなそうだったけど」
「霧崎が絡んでるから、岩瀬先生もおおごとにしなかったんじゃね」
晴彦は茶色がかった癖っ毛をいじりながら言った。
どうかな、と俺は首を傾げる。
岩瀬先生は、表向きは浪恵先生の傀儡のように振る舞っているけれど、実は内心の読めない人だ。
彼が去年なぜ母校の播磨大を辞め、榛名学院にやって来たのかは知らない。
播磨で生徒を宗教に勧誘して保護者と揉めたと耳にしたが、噂の域を出ないし、ここでは今のところそういう話は聞かない。指導は徹底してロジカルで、特にジャンプの指導は抜群に上手い。
四年前までクワドを跳んでいた人の言葉には説得力がある。
前橋にばかり居着いていた霧崎が積極的にこっちの練習に顔を出すようになったのも、岩瀬先生が来てからだ。
……だが、俺はどうしても、あの人をきな臭いと感じてしまう。
いつも顔に張り付けているインテリジェントな微笑み。あれは、仮面だ。
その下に、鋭い飛び道具でも隠しているような不穏さがある。
四年前、現役最後の世界選手権で見せた「セブン」の怪演。
あの狂気こそが、彼の本質じゃないのか。
「……洸一、顔怖い。眉間に皺寄ってる」
「えっ、やだな。PCいじりすぎて目が疲れてるのかも」
慌てて眼鏡を外し、目頭を抓んでみる。
「あ、それ。入江選手じゃん」
ずい、と晴彦が画面を覗き込む。俺は眼鏡を掛け直す。
「うん、昔の動画。浪恵先生にダビング頼まれたから」
「この人デキ婚で五輪の後すぐ引退したんだよな」
肩が震えるほど、ドキリとした。
「……よく、そんなこと知ってるね。ソルトレイクの頃なんて、俺達まだ二歳とかじゃない?」
「俺がフィギュアやってんの、母さんが五輪の入江選手に感動して、俺をスケート教室に放り込んだからだもん。だから話だけは色々知ってる。何でも五輪の時は既に妊娠してたとか」
「……晴彦、本当に詳しいね」
画面の中の入江瑞紀の印象は、デキ婚や妊娠というイメージからはかけ離れていたが、そのギャップが逆に生々しかった。
「大変だったみたいだぜ。週刊誌にすっぱ抜かれて、連盟も対応が。相手も相手だったんだよな。同じ五輪の日本代表選手だったから、すげえ騒がれて」
「……日本代表って、まさかフィギュアの?」
連盟のお偉方の険しい顔が頭に浮かび、血の気が引く。
「や、流石にそれは無い。何の選手だったっけ。ホッケー? スノボ? ……忘れた。とにかく、相手はそんな大物じゃなかったんだよ。しかも結構年上。それが若干二十歳の金メダリストを妊娠させたときたら、スキャンダルもいいとこだろ。でも、もうお腹に子供はいるわけだし。……俺なら、彼女守るために世界の果てまで駆け落ちするね」
「晴彦って……結構、ロマンチストな所あるよね」
呆れながらも、ちょっと感動する。
俺ならなんて、俺なら思いつきもしない。
そんな風に思い至るほど、俺は誰かを好きになったことがない。
毎日のように学校で繰り広げられる恋愛沙汰は、全て俺には別世界のようだ。
すぐに好きになって、すぐに付き合い、すぐに別れるを繰り返している晴彦も。
「だろ? スケーターに大事なのは想像力ってわけよ。……にしても、フィギュアの五輪金メダリストってすぐ引退するよなあ」
晴彦は背もたれに寄り掛かって大きく伸びをした。霧崎への怒りはもう忘れたようだ。
「そりゃあ、五輪で優勝すれば、生涯の目的は果たしたも同然なんじゃないのかな」
「そうか? でも、溝口さんって引退会見もしてないじゃん。現役続行したかったけど怪我でやむなく引退したって話もあるし、ブラジルでコーチやってるって噂もあるし」
「後ろのは初めて聞いた」
「や、アルゼンチンだったかもしんない。あと、コーチじゃなくて旅人だったかも」
「……それ中田英寿と間違えてない?」
間違えてねーよ、と言って晴彦は笑い、てか体育祭だりー、と急に机に突っ伏した。
「部活対抗リレーのネタ思いつかねー。もう全部女子に押しつけて逃げようかな」
「さっき彼女守るって言ってた男の発言とは思えないな……」
「だってめんどくせーんだもん、てかお前種目何出る?」
「二人三脚と騎馬戦」
「マジ? 上? 下?」
「上なわけないよ、下」
「確かに。でも眼鏡気をつけろよ」
「うん、サンキュ」
……ピアソラを見るタイミングをすっかり見失ったなと思いながら、俺はノートPCを閉じた。
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