第6話 2001全日本選手権
「これに、目を通しておきなさい」
練習後、浪恵先生から一枚のDVDを手渡された。
盤面には、
夢が現実に躍り出てきたようで、脈が早くなった。
「……入江選手って、ソルトレイク五輪の金メダリストですよね。日本フィギュア史上初の」
冷静になるため、データを口にしてみる。
「ええそうです」
先生は頷いた。
「そんな昔の女子選手の演技を、どうして俺が?」
「……彼女はここのOGで、私の教え子なのです」
問いへの答えにはなっていないが、息を呑む。
「……全然、知りませんでした。じゃあ、先生はソルトレイクのキスクラに?」
「いいえ。その全日本で優勝した後、彼女は私と袂を分かちましたから」
淡々と口にするが、声には今でも思うところがあるのが見てとれた。
「それ、一枚しか無いので、くれぐれも割ったりしないようにね」
「じゃあ、焼き増ししときましょうか」
何となく、女子にも一枚回しておいた方がいいかなと思った。
「……そんなことできるの」
できますよ、と俺が言うと、機械音痴の浪恵先生は驚いたように目を見開く。
それが妙に可愛らしく、俺は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
じゃあよろしく、と先生が部室から出て行くと、俺は早速ノートPCを取り出して、余っているDVDにダビングを始めた。
ファイル名、ショートプログラム「移民の歌」、フリープログラム「ピアソラ・メドレー」……
ピアソラか、と俺は呟いた。
だから、俺に見ておけと浪恵先生は言ったのかな。
手を止めて天井を見上げ、椅子ごと回転する。キイ、と背が軋む。
ピアソラのリベルタンゴは、二年前の俺のショートプログラムだ。
アイスダンス出身の浪恵先生がタンゴのステップを取り入れて作った、難しいプログラムだった。
あの複雑なステップシークエンスを、俺はとても気に入っていた。
これは、エッジワークに人一倍こだわるあなたにこそ相応しいプログラムです。
直接言われたわけではないが、そう翻訳してもいいような思い入れが伝わってきた。
思い上がりなどではなかったと思う。
……結局、俺はあれを全日本ジュニアで披露することはできなかったけど。
入江選手が浪恵先生の教え子だというなら、このピアソラメドレーも先生が作ったのかもしれない。
よし、とPCに向き直り、俺は動画を再生した。
血のように鮮烈な、赤いオフショルダーの衣装を着た少女が映る。そう、それは確かに少女だった。
入江瑞紀、十九歳。
十九歳といえば、フィギュアの女子選手ならば既に中堅に片足を突っ込んでいる年齢だ。
しかし彼女は、全身から醸し出す雰囲気が、完全に少女のそれだった。
挑発的というより、生来の気質と思われる強気な目でリンクを一周すると、中央に立ち、威厳たっぷりにスッと右手を横に挙げた。
黒いレザーの手袋。音楽が流れ出すのを待つのではなく、自分が音楽を流す。その合図に見えた。
エレキギターが響き渡り、ドラムが弾け飛ぶ。
……これは、ショートプログラム、レッドツェッペリンの「移民の歌」じゃないか。
ファイル名と中身が逆になっていたんだ。
浪恵先生が間違えて書き出したのかな。後で直しておかなきゃ。
俺が見たいのはフリーのピアソラの方だ。
……なのに、動画を止めることができない。
入江瑞紀のスケーティングは、あまりに音楽と一体化していて、俺はそのまま見入るしかなかった。
シャウトと共にジャンプを踏み切り、完全な無音の空間に浮き上がる。
トリプルアクセル。
着氷と同時に、再び音楽が爆発した。
水飛沫が目に見えるようなデスドロップからのフライングキャメルスピン。
そして、海面を渡るように駆け抜けていくステップ。
足元はインとアウトを複雑に休むこと無く使い分ける。
ディープエッジで明確に氷を掴み、上半身をあんなにも撓わせ、右に左に、ターンを織り交ぜていく。
新採点法なら、文句なしのレベル四だ。
スケート靴を履いていないのに、俺の足が疼き出す。
骨が、筋肉が、架空のエッジを踏み分けていく。
時空を超えて誘惑されているようだ。
声が聞こえる。
観念しなさい。その足元は既に氷の海原。失った物全てと引き替えに、勝ち取るのよ。
歌詞が重なっていく。……歌詞?
高速スピンでフィニッシュした直後の、不敵な微笑み。
そして拍手が鳴り出すなり無邪気に笑い、優雅に一礼する仕草はプリマさながら。
その姿に圧倒されながら、俺は頭の隅で考えていた。
……これって2001年だよな。
バリバリの旧採点時代で、歌入りの曲って?
キスクラには、若き日の浪恵先生が映っている。
既にこの頃から女帝と称される雰囲気の片鱗がある。今より痩せている分、眼光が鋭い。
……この頃、俺はまだ一歳になったばかりだろうか。当然、記憶は無い。
技術点は圧巻だった。5.9と6.0が並ぶ。
当然だ。ミスらしいミスなんて一つも無い。
ジャンプ構成は、トリプルアクセル、トリプルルッツ+トリプルループ、トリプルフリップ。
最高難度の太鼓判を押せる。
男子でも、この構成をこなせる者はそういないだろう。
ちなみに俺には絶対無理だ。そもそも3Aが跳べないし、コンボのセカンドループも跳べない。
男子でセカンドの3Loを跳べる選手は稀だ。
トウが突けないセカンドループは、重い筋肉で軸が太くなりがちな男子にはリスキーすぎる。
……それを、彰は最も得意としていた。だからこそ、あいつはジャンプの申し子だったんだ。
俺はそっと唇を噛んだ。
芸術点は、想定していたより遙かに低かった。
5.6と5.7が並び、5.5を付けるジャッジもいた。ヴォーカル楽曲による減点が響いているのだろう。
画面の入江瑞紀は、口をへの字に曲げ、露骨に首を傾げる。
マイクに声は拾われていないが、浪恵先生が厳しく窘めている。
しかし、入江瑞紀は不満を隠そうともしない。長い脚を恥じらいもせずにカメラに向けて投げ出す姿は、まるでふて腐れた子供だ。
氷上では艶然と見えた唇の紅色が血色の悪い肌に不自然に浮き上がる。
動画は、そこで切れた。
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