第4話 野辺山合宿(2)
最終日、フリー演技の発表会。
その実態は更に上のクラスへのセレクションだ。
芝浦はグランツーリスモのテーマ曲で三分半滑りきった。
アクセルを含む六種類のトリプルジャンプをクリーンに決めた、圧巻のノーミス演技。
だが、芝浦の顔には何の感情も見られない。
皆が息を呑む中、淡々と形式張ったお辞儀をした。強化部長は芝浦に言い渡した。
「あなたは天才よ。だから悪いことは言いません。すぐにでもスピードはやめること。両立なんてできるわけがないわ。氷上はそんなに甘い世界ではありません。自分が今までどれだけ多くの物を失っていたか、この五日間でよく分かったはずです。北海道に帰ったら、フィギュア一本に絞ると、お母様に……いえ、お父様にも伝えなさい。それが、上のクラスへの参加条件です」
「いいです。俺、上には行きません」
芝浦は即答した。
そして、混じり気の無い視線でその場の大人達を透過すると、もういいですか、と言い置いて、さっさとリンクを降りてしまった。
誰もが唖然として言葉を失う中、一人リンクサイドでクスクスと笑う人がいた。
ゲストコーチとして招かれていた、当時十九歳にして既に全日本三連覇、二度の世界選手権優勝を成し遂げた若き氷帝、
合宿最後の夜の花火にも、芝浦は行かないと言った。
刀麻も行こうよ、と彰は食い下がったが、芝浦は考え事がしたいと聞かなかった。
「だってそれゲームだがね」
「俺、考え事する時はいつもこうなんだ」
ベッドに寝転がる瞳には極彩色のパズルがそのまま映っている。
彰は溜息をついて、もういい、洸一君行こ、と俺を引っ張って行った。
ホテルの裏で花火が始まっても、はしゃぐ彰達を尻目に、俺は何だか落ち着かなかった。
やっぱりもう一度誘おうと部屋に戻ってみたら、芝浦はいなかった。
ベッド脇に置いてあったはずのシューズケースが消えていた。
もしやと思い、俺はリンクへ向かった。
重いドアをそっと押し開けると、リンクには芝浦と溝口さんがいた。
咄嗟に近くのロッカーの影に身を隠す。
隠れる理由なんて無いのに、何となく立ち会っちゃいけない場面のような気がした。
「……あなたはスケート連盟の人ですか」
芝浦の声には明らかな険があった。
「へえ。僕のことを知らないんだね。……僕は溝口達也。一応、前の全日本と世界選手権で優勝してるんだけどな」
溝口さんはおどけたように唇を尖らせ、フォアでゆっくりとリンクを回っていた。
「俺、フィギュア見ないんです」
芝浦は氷には上がらず、フェンスを掴んでそう言った。何かを警戒するように、据わった目で氷面を見つめていた。
「あぁ。入江さんが見せてくれないんでしょ。あの人、野生児だもんね」
流し目で挑発的な視線を送る。
「……母さんは関係ないよ。俺が、人のスケートに興味が無いだけ。オリンピックだって見ないと思う」
声色が厳しくなった。
八歳も年上の相手に全く怯んだ様子を見せない。
溝口さんはその態度を気に入ったように、あははと笑った。
「でも、来年のソチ五輪だけは見てよね。僕が金メダルを取るからさ」
そう言い切り、芝浦の目の前でブレーキを掛けた。
「……それが言いたくて、わざわざ俺を呼び出したの? 」
「まさか。フリー演技、見たよ。……君のスケート、つまらなくなってるね」
芝浦の体がぴくりと動いた。溝口さんはニヤリと笑った。
「まあ、あれだけ大人に色々言われたんじゃ無理もない。……だけど、それが安全な方向だ。正しい道さ」
溝口さんは再び滑り出し、軽い足取りでダブルスリーターンを回った。
俺は背筋に寒気を感じた。
さっきから溝口さんのエッジからは一切の音がしない。
芝浦の視線は、水蒸気を氷へと昇華させるように、ぱちぱちとトレースを追いかける。
気圧が急速に下がったかのように、耳鳴りがした。
「不本意かい? そうだろうな。どれだけお行儀のいいフリをしても、君の内なる魂は、君の今のスケートにNOを突き付けているはずだ。僕には分かる。なぜなら……君は、僕と同じ人種だから」
溝口さんは流麗にステップを踏む。
三度のツイズル、ブラケット、カウンター。
ふわりふわりと音も無く、ゆるくパーマのかかった金髪が風に踊る。
「世界中どこにいようと、君の匂いはすぐ分かる。逃れることなんてできないよ。君は運命を背負いし者だ。来るべくしてここへ来た」
ロッカー、カウンター、ループ。
光の粒子に染まっているのか、それとも光を放出しているのか。
まるで白夜の下、オーロラと戯れるように溝口さんは舞う。
完全に無音の空間で、俺の耳鳴りだけが増幅していく。
「心の声に従ってスケートと心中するか、声を押し殺して生き延びるか。二つに一つさ。いいとこ取りはありえない。……けどね」
溝口さんの足が、ぴたりと止まった。
「どちらを選ぶにせよ、大人になる前に君は死ぬ。……これは預言だよ」
耳鳴りが、消えた。
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