第3話 野辺山合宿(1)

 夢を見た。


 中一、三度目の野辺山合宿。

 そこには彰もいた。


 そして、初参加の二個下の少年がいた。

 名前は、芝浦刀麻しばうらとうま

 くるくると表情を変える滑り。獰猛な野性を剥き出しにしたかと思えば、そよ風のように舞い上がり、ふわりとターンを決める。

 自在に輝く音の粒が、トレースを辿って彼を追いかけていた。

 一つとして同じ形は無いという雪の結晶のように、そのエッジが奏でる音は多彩だった。

 とりわけジャンプの踏み切りの音は美しく、方解石を割るようにクリアだった。

 そしてジャンプの高さ。

 氷を味方にするなどという次元ではなく、氷上こそが本来の住処であるように見えた。


 北海道出身で、冬は庭やグラウンドに作ったリンクでいつも滑っていると言っていて、俺は心底驚いた。

 屋内でしか滑ったことのない俺にとって、芝浦の奔放な滑りは風の申し子のように感じられた。


洸一こういち君、アイツもう練習で何回かトリプルアクセル降りとるって。やばくない?」

 芝浦の滑りを横目で見ながら、彰がこそっと言った。


「……すごいね。俺なんか最近やっとトリプルトウ降りたよ」

「なんかさ、女子でも一人降りとる子いるんだって」


「ああ、霧崎妹ね」

「あの子きょうだいいるの? 洸一君知り合い?」


「うん、地元が一緒。双子の兄がいるよ。兄はここに来るようなレベルじゃないけど、妹は本当にすごい」

「へえ。……ま、男子だろうと女子だろうと、俺、年下には負けられん」

 彰はぺろりと唇を舐めると、再びリンクに飛び出した。


 俺はそのまましばらく芝浦が滑るのを見ていた。

 少し気になることがあった。

 芝浦のスケートは、心が躍動するほどの生命力に溢れている一方で、猛烈な焦燥感をかき立てられる。

 ほら、今がそうだ。耳元でちりちりと何かが燃えるように空気が震える。

 これは、氷が痛みを訴える音。

 俺は目を凝らし、違和感の正体に気付いた。

 芝浦は、氷を削りながら滑っていた。


 芝浦の滑りの荒さを、野辺山のコーチ陣は見逃さなかった。

 最初に言及したのは、動画分析担当の、カナダから来たトレーナーだった。


「I don't suppose he dedicates his body to figure skating」

 彼はタブレットの画面と芝浦を交互に見た後、恰幅のいい体で向き直った。

「Do you play any sports besides this?」


「何か他のスポーツをやってるかと聞いてるわ。あなたの身体は、フィギュアスケートに特化されていないと」

 連盟のスタッフが言うと、芝浦はしれっと答えた。

「スピードスケートをやってます」


 俺も彰も驚いたが、何より先生達の愕然とした顔を忘れられない。

「No way. There couldn't be worse alternative than it」

 お手上げとばかりにトレーナーは大きく首を振った。


 部屋の空気は一気に重くなり、英語が分からない俺達にも事態の深刻さは見て取れた。

 その後、芝浦は別室に呼び出され、グループレッスンには現れなかった。



 翌日から、芝浦には容赦ない指導が加えられた。

「氷を削りすぎよ! 自分の描いたトレースを見てみなさい!こんなに雑なスケーティングをする人がいますか!」


「ほら、またそのブレーキ! 氷の削りカスは出した分だけ恥だと思いなさい」


「あなたのトレースだけ線が太いでしょう。それはあなたがエッジに乗らずに力で漕いでいる証拠です」


「フラットの瞬間が多すぎるわ。ジャンプは全種類正確に跳び分けられるのに……一体誰に教わってきたら、こんなにいびつなスケートになるのかしら」 


「母さんです」


 強化部長の嫌味に、芝浦は馬鹿正直に答えた。

 皆ギョッとした。

 強化部長にじろりと睨まれても、芝浦は真っ直ぐに視線を逸らさなかった。

 そのどこまでも透明な視線は、一切の不純物を排した純氷を思わせた。


「……この子、入江いりえさんの」

 スタッフの一人がそっと耳打ちした。

 すると強化部長は「まあ」と少し目を見開いて、芝浦を上から下までしげしげと眺め、ぽつりと言った。


「じゃあ、あなたがあの時の子なのね」

 この時の俺には強化部長が発した言葉の意味が分からなかった。

 言われた芝浦自身も、分かっているのかどうか微妙な顔をしていた。


 ただ、この時から先生達の芝浦に対する態度が明白に変わった。

 より厳しくなった人もいれば、逆に腫れ物に触るように扱う人もいた。

 芝浦はその全てに対して一切の変化を認めないように、黙々と指導を受け、次々と指示を実行していった。

 その様子は全く器用なもので、どこまでも水を吸い込むスポンジのようだった。


 彼はたったの四日間で、インとアウトを使い分けるエッジワークを身に付けてしまった。

 フラットの瞬間はなりを潜め、ブレーキをかけても削りカスは殆ど出ない。

 そのエッジからは、痛みを訴える音はもう聞こえてこない。

 芝浦の滑りは間違いなく良くなっているはずだった。

 なのに、俺はそれを美しいと思えなかった。

 芝浦のスケーティングを彩っていたはずの音の輝きは、もうどこにも無かった。

 雪が地に落ちて溶けるように、消えてしまった。



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