第2話 氷の声が聞こえない

 氷の声が聞こえなくなるというのは、世界から遮断されるということだ。


 二年前の全日本ジュニア選手権、ショートプログラム前の六分間練習。

 あの時俺は、氷の声どころか、ほぼ全ての音が聞こえていなかった。

 だから俺は、あきらと衝突した。

 得意のルッツジャンプを、あんなに長く助走を取ること自体、らしくなかった。

 満を持して後ろ向きで踏み切った瞬間、彰と衝突し、転倒に絡んで、気付いたら彰のエッジが俺のこめかみから瞼にかけてざっくりと刺さっていた。


 目よりもまず打った肩が痛くて、しまったなと思ったけど、すぐに目から温かい水が噴き出てくる感覚がして、手を当てたら、血が流れていた。

 氷にも自分の血が滴り落ち、時間差で目眩に襲われ、その後の記憶は手術後まで無い。

 気付いたらベッドの上で、俺の右目は包帯で視界が塞がっていた。


「……試合はどうなったの?」

 隣で泣き出しそうな顔をしていた母親に尋ねると、

「あなたも寒河江さがえ君も担架で運び出された。私はずっとあなたに付いていたから分からない」

 と答えた。


「彰は?」

「脚を怪我したみたい、すごく痛そうにしていたから」

「脚って……どっちの脚?」

「人のことなんて今はどうだっていいでしょう! あなた右目が見えなくなるかもしれないのよ!」


 涙ながらの叫びで、俺はやっと事態の深刻さを理解した。

 幸い手術が早く先生の腕も良かったから、俺の目が見えなくなることはなかった。

 視力はひどく落ちてしまったが、眼鏡を掛ければ生活に支障は無かった。

 でも、眼鏡を掛けていたらフィギュアスケートはできない。

 正確に言えばスケートはできる。

 だが、飛んだり跳ねたり回ったり、競技のエレメンツをこなすことはできない。


 だから、俺は十二年間やっていたフィギュアスケートをやめた。

 十二年。

 人生の三分の二を賭しても、手放す時はこんなものだ。

 ただスポーツ推薦で入学した手前、部を辞めるのは躊躇われたので、高三の今でもマネージャーという肩書きで残っている。


 俺は、ずっと彰のことを気に掛けていた。

 小学生の頃から野辺山合宿で一緒だった彰。

 一つ年下で、遠くに住んでいる弟みたいな存在だった彰。

 スケート王国愛知で敵無し、ジャンプの天才、寒河江彰さがえあきら


 ……彰の怪我が右膝靱帯断裂というのは、スケート雑誌の小さな記事で読んで知った。

 翌年の全日本ジュニアにも、彰は出てこなかった。

 全日本だけじゃない。どの地方大会にも、彰は出てこなかった。


 視力を失い、弟分を失い、スケートを失う。

 これは、氷の声に耳を傾けなかった代償なのだろうか。

 あるいは、神様からの罰。

 少し重すぎやしないかとこぼしたくなる時もある。


 例えば、こんな夜。

 面白いTVは何一つやってなくて部屋にこもる。

 聞きたい音楽は無く、本もネットも、どこを探しても心のコップを満たせるものが無い時。

 スケートさえあれば。一瞬、頭を過ぎる。

 昔は、オフでも心は常に氷の上にあって、空っぽになる暇も無かったから。


 しかし同時に、スケートは過剰だ、とも思う。

 スケートは惜しみなく奪う。金も、時間も、体力も、精神も。

 対価に得られるものは、笑えるほど一瞬の煌めき。

 ジャンプがその象徴だろう。

 不安定な氷の上で、ありったけの熱量を薄いエッジに託し、跳躍、回転する。

 その何もかもの極端さ。

 十二年間、俺は戸惑いっぱなしだったなと思う。


 静謐に発光するリンクの佇まい。

 エッジから伝わる氷の穏やかな息遣い。

 ……初めてこの手が選び取った理由は、そういうものだったはずじゃないか。

 適切に満たされることが大事なんだ。


 一秒ごとに形を変え、傷付き、呼吸をする氷。

 俺と同じだ。

 削り取られ、溶け落ちたものを、俺は拾い集める。何周もかけて、じっくりと。

 どんなに小さな欠片も見逃さない。

 だってそれは俺だから。

 だけどちゃんと手に取らないと、それが俺だとは分からない。


 コンパルソリーは、命の点呼だ。

 今日も自分が生き残ったことを確認し、俺は眠りにつく。

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