第二章 Communicator 星洸一

第1話 Language

 子供の頃からの癖なんだけど、俺はよく氷に話し掛ける。

 口に出して直接。あるいは心の中でこっそり。

 

 やあ、調子どう? 

 今日のザンボは新入りの人だったね。

 まだ若いのになかなか手慣れていた。

 ……ところで、ちょっと上がってもいいかな? 

 選手が来る前に、リンクコンディションをチェックしておきたくてね。

 

 もちろん、返事は無い。

 氷は氷だ。人間じゃない。だから言葉は通じない。

 エッジを通して身体へと伝わってくるのは、氷の声だ。

 言葉だと錯覚してはいけない。


 でも、氷は氷の言語で何かを伝えようとしてくる。

 じっとこちらを見たまま、片時も目を逸らさず。

 気まぐれに足の裏を押し、吸い付くように受け入れ、そしていつだって裏切る隙を窺っている。

 だから、俺は常にエッジを通して話し掛けるし、耳を傾ける。

 分かろうとするのをやめちゃいけないんだ。



 朝練前の静寂の十五分間。

 俺はスケート靴を履いた足を、そっと氷に乗せる。

 まだ誰もいないスケートリンクに一礼。

 深呼吸をして、その空気を存分に吸い込む。リンクの匂いが好きだ。

 氷にコンクリートと革靴とザンボのガソリンが混じり合った、ここにしかない匂い。

 たとえボケた爺さんになっても、これだけは絶対に忘れないと思う。


 無音の中、俺は滑り出す。

 コンパルソリー。フォアでパラグラフブラケット。

 右足と左足で三回ずつ。

 無心とは、このことを言う。俺はコンパルソリーをやっている時だけ、何にも心を乱さずいられる。

 一つターンを回り、円を描くごとに、心の中のコップをくるりくるりと回していく。

 水は適切に満たされ、決して溢れることはない。

 常に凍る寸前の温度で保たれたそれは、いわば過冷却状態。ほんの少しの衝撃でたちまち凍り付く。

 だから俺は絶対にエッジを乱さない。

 凍結したら最後、今度こそ本当に俺は滑り出せなくなってしまう。


 滑り終わると深く息をつき、氷に這いつくばるようにして、自分の描いたトレースを確認する。

 目を見張った。

 トレースが、完全に重なっている。

 ……こんなことは、十二年間で一度も無かった。


 乾いた拍手の音が響き、俺は振り向いた。


「見事ですね。もう一度、今度はバックでパラグラフブラケットを」


 分厚い毛皮のコートを着た浪恵なみえ先生が、リンクサイドで見ていた。

 いつの間に来ていたんだろう。


「……いえ、やめておきます。そろそろ時間ですし」 

 わざと無愛想に言い放ち、頭を下げてリンクを降りた。

 浪恵先生は、俺の背中に何も言わなかった。


 氷とのコミュニケーション。

 いいことも悪いことも、全部。

 俺は誰にも知られたくない。

 自分が一番大切にしていることの意味を、俺はうまく説明できない。

 絶対に言葉じゃ伝わらない気がして。

 なのに氷には話し掛けるのをやめられないなんて、俺は矛盾している。


 さっきの図形が、瞼の裏に焼き付いている。

 もう一度トライしたら、また寸分の狂いも無くトレースは重なるだろうか。

 首を振る。あれは、ただの偶然だ。

 だって、俺はもうフィギュアスケーターではないのだから。

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