第17話 Childhood's End
関東ブロック大会の会場は、伊香保スケートリンク。
前日練習に帯同した私は、とーまのお父さんの車に乗っていた。帯広ナンバーが懐かしい。
とーまはジャンプを全て決めて絶好調だったけど、終わってからも妙にハイで、アドレナリンを制御できていない気がした。
おじさんもそう感じたのか、唐突に
「榛名湖にでも行くか」
と言い出した。
山の澄んだ空気はクールダウンにちょうどいいかも、と私は思った。
湖畔の駐車場で車を降りた。
流石に山の上は涼しい。
青空を切り取るように榛名富士が聳え立ち、湖面がそれらを更に切り取って逆さまに写す。
澄んだ水は青い鏡のよう。
榛名湖は、冬には全面凍結する。
真っ白に氷結した湖面でワカサギ釣りもできるらしいけど、暖冬で中止になる年もあるみたい。
「あれ乗ろーぜ」
とーまがスワンボートを指差す。
唐突だなあ。私が返事をするより先に
「オヤジ、俺達ちょっとあれ乗ってくる」
「おう、行ってこい。俺、煙草吸ってるわ」
「委員長、行こ」
とーまはさっさと階段を降りて行く。
慌ててついて行こうとしたら、おじさんに肩を叩かれて、振り向いた。
「……里紗ちゃん。刀麻を頼む」
おじさんは真っ直ぐ私を見据えて言った。
さっきまでの微笑みは消え、真剣そのものという顔だった。
「大丈夫ですよ。子供じゃあるまいし、はしゃいで落ちたりしません」
私が笑って言うと、おじさんはゆっくりと首を横に振った。
「本当に、あいつを頼む」
深い皺が刻まれた目元は潤んでいた。
おじさんは、あまりとーまに似ていない。
とーまは多分、圧倒的にお母さん似だ。
それでも、よく似た背格好に、私はとーまの三十年後を重ねられる。
「……分かりました」
何を分かったというのだろう。
そしておじさんは、とーまの一体何を心配し、何を恐れているのだろう。
それでも、そう答えるしかないような気がした。
「ねえ、委員長。白鳥の色、白でいい?」
階段の下から声を投げてくる。
こんなにも、とーまは無邪気だ。
「白でいいよ」
私はスカートを翻した。
乗って水上に出ると、スワンボートは思っていたより頼りなく、そして榛名湖はずっと広かった。
とーまがふざけてスピードを出すからボートは不安定に揺れて、私は本気で青ざめた。
私達、シートベルトも救命胴衣も付けてないのに。
どうして、そんなにはしゃいでるの。
まるで何かの終わりを惜しむみたいに。
「とーま、怖くないの?」
私はおずおずと訊いた。
だって、氷の妖精は、落ちたら溶けて消えちゃうよ。
「……怖いよ」
急に、とーまは哀しげに笑った。
ほんの少し濡れた瞳は、涙を押し隠しているようにも見える。
でもそれは一瞬のことで、すぐに瞳には力強い光が戻った。
「それでも、やらなきゃいけないことってあるだろ。時間は限られてるからな」
そう言って、再びペダルを漕ぎ出した。
「ここが、中心だな」
とーまは呟いて、足を止めた。私も止まる。
確かに山の裾野が左右対称に広がって見える。
ここは、湖の中心だ。見渡す限り誰もいない。
私達は本当に二人きりだった。
「……俺、委員長にリボンナポリン百本おごんないとな」
心も身体も、すぐに反応できなかった。
私はただ食い入るようにとーまを見ていた。
とーまの目は、私の瞳の遙か奥に焦点を結び、プールサイドで体育座りをしたままの私から現在の私までを結ぶ、一本の線を辿っている。
「ずっと忘れてたんだ。完全に、頭の外に消えてた。本当にごめん。だけど、俺思い出したよ。もう二度と無くさない。俺、明日は委員長のために滑るよ」
耳がどうかしてしまったかと思った。
打たれるよりひどい。
忘れられていたことがじゃない。
「……そんなの、絶対だめ。とーま。私、そんなことしてほしくて曲を作ったんじゃないよ」
声が掠れる。唇は怒りで震えていた。
とーまは眉を顰めた。
「そんなこと? 俺が委員長のために滑るのは、そんなことか? 俺が選んで、俺が決めて……やっと俺、地に足がついたのに」
裏切られたと思った。
思い出してなお、そんなことを言うなんて。
とーまは、あの約束の本当の意味を分かってない。
「嫌だよ! とーまが何かや誰かのために滑るなんて、絶対嫌。目的も理由も意味も要らないって言ってたでしょ。スケートのために、スケートをしようよ。それ以上でも以下でも無いことだけ続けよう。あの宇宙は何だったの。あそこで、音楽のための音楽を……やっと私、この手に取り戻せたのに」
鍵盤の階段を上り詰めた怪物が、ゲートの前に立っている。
向こうに行けば、助かるよ。
それは、命の扉。
あなたの中の純粋な物を残らず攫って、私はあちら側へと追放する。
何を犠牲にしても、私は、あなたに。
「行かないよ。俺はここで生きる」
ゲートが、とーまの手で閉じられた。
光は収束し、とーまの胸の一点に還る。
青空のリンクに屋根が掛かるのが見えた。
涙が溢れた。
私の頬に、とーまは手を伸ばした。
指先で涙を拭って、もう片方の手で私の肩を抱き寄せようとする。
「揺れちゃうよ、とーま」
「逃げないで。ちゃんと、俺を見て」
目を見た瞬間、かちり。
最後の時計の音が、私の中で鳴った。
透明な怪物の輪郭が目の前のとーまに溶けて消え、本当に透明になった。
……さようなら、妖精さん。
私達、もう二度と会えないね。
「……私の鍵盤、消えちゃった」
「大丈夫、俺がずっと覚えてるよ」
「私も、リボンナポリン百本おごる」
とーまは吹き出す。
「二百本入る冷蔵庫、買わないとな。……好きだよ、里紗」
全てを覚悟し、私は目を閉じた。
唇が重なる。
中心は移行し、二度と揺らぐことはないだろう。
文字通り、世界は塗り変わった。
次に目を開けるのが怖い。
それでも私は勇気を出して、この感情に名前を付けてみようと思う。
愛してるよ、刀麻。
(第一章 終)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます