第16話 透明な怪物


「山崎、とんでもないことしたって自覚ある?」


 文化祭準備の登校日、床に座り込んで黙々とポスター塗りをしていたら、いつの間にか隣にいた霧崎君が声だけで話し掛けてきた。


 私はまずその足元に視線を向け、足治ったんだと思った。

 先月、霧崎君は練習中に足首を怪我した。

 軽い捻挫だったらしいけど、しばらく松葉杖をついて学校に来ていた。

 

 ぽかんとしている私に、霧崎君は深く溜息をついた。

「……無いんだな。そうだろうとは思ってたけど」

「何の話?」

 私は手を止め、眉を顰める。


「あいつに曲なんて、作るべきじゃなかったよ」

 霧崎君は鋭い視線を向けてきた。

 私は猛烈な苛立ちが湧き上がり、ガチャ、とパレットを置いた。


「余計なお世話だよ。とーまはあんなに生き生きと滑ってるもん」

「だからだよ」

 強い口調で霧崎君は言い切る。


「そいつのために書かれた曲でデビューするなんて、フィギュアスケーターにとっては最悪だ。あいつを本当に成長させたかったら、君は曲なんて作るべきじゃなかった」

「……どういうこと」

 胸がざわめく。

 霧崎君は再び溜息をつくと、壁に背中を預けて天井を見上げた。


「元々ある曲、受け継がれてきた曲、合わない曲。色んな曲で滑りながら苦しんで、スケーターは成長するんだ。……なのに、君はその未来をあいつから奪ってしまった。あいつは今がピークだよ。きっとあいつは今季、全日本ジュニアの表彰台に上がるだろうね。世界だってあるかもしれないな。でも、そこまでだ。始まると同時に、あいつは終わる」

 そう言って霧崎君は一度目を閉じた。睫毛の影がすごく濃い。


「……霧崎君は、勘違いをしてる」

 私はジャージの袖をぎゅっと掴んで言った。

「私は、とーまのために曲なんか作ってない。私は、誰のためにも曲を作ったりしないもん。私が勝手に作った曲を、とーまは選んだだけ。とーまの未来は、とーまのものだよ。私が奪えるようなものじゃない」

「君が本当にそう思っているなら、あいつが哀れだよ」

 一息に霧崎君は言った。

 伏せられた目が、妙に切なげだった。


 わけの分からないまま、胸だけがずきずき痛み出す。

 いつの間にか、怪物の背中が濡れていた。雨にでも降られたみたいに。

 どうして目を見てくれないの。

 体育座りで丸まったまま、向こうだけを見てる。


「……まあ、俺はそういう考えは嫌いじゃないけど」

 少しだけ柔らかさの混じった声が降ってきて、イメージは霞んだ。

「俺が引退する時には、山崎に曲を頼もうかな」

 霧崎君は再び絵筆を手に取り、ぐりぐり塗り出した。


 私、誰のためにも曲を作らないって確かに言ったのに。

 溜息をついて、大げさに首を横に振る。


「霧崎君の引退なんてプレッシャー掛かりそうだから、絶対嫌」

「当たり前だろ。……それだけのことを君はしたってことを、俺は言いたいんだよ」

 唇が少し尖って見えた。


「ちょっと、そこはみ出してる」

 美術監督の絵里子のキツい声が飛んできた。

「やべ、塗りすぎた」

 そう言って頭をかいた手に筆が持ちっぱなしだったから、絵具の青が霧崎君の髪の毛に付いた。

 霧崎君にも苦手な物があるんだなと私は思った。

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