第12話 はるなリンク
「好きな歌手とかいるの?」
「うーん、俺音楽聴かないんだよなあ。テレビも見ないし」
「じゃあ、映画は? どういうのが好き?」
「映画も殆ど見ないから分からない」
「……ショートの曲は決まってるんだよね?」
「うん。移民の歌ってやつ」
「ああ、レッドツェッペリン。それは合ってるね、とーまに」
「オカンのプログラムをもらっただけだから。でも、元の曲がしっくり来なくて、コーチがカバーを見つけてきた」
「移民の歌のカバー? まさか布袋さんの?」
「ホテイ? なんか、女の人が英語で歌ってるやつだけど。そういう名前なのかな」
私は唖然とした。
とーまって、びっくりするくらい空っぽだ。
別に音楽や映画に詳しくなれと言うつもりはない。
でも、フィギュアスケーターって、もっと表現に貪欲なものじゃないの?
それこそ、序奏とロンドのピアノ版にこだわっていた霧崎君のように。
溜息をつきかけて、ハッとした。
陸上のとーまは、仮初めの姿。
だから、今ここで言葉を引き出そうとしたって無意味だ。
本当のとーまは、氷上にいる。
それなら、私がこの目で確かめなきゃ。
とーまがちゃんとフィギュアスケートを滑っているところを。
放課後、私ははるなリンクへ行った。
そこは、広大な榛名学院の敷地の一番端にある。
一般生徒が訪れる機会は殆ど無い。
とーまは直接一階に来ていいと言ったけど、私はパスを持っていないし、何よりスケーターの聖域に土足で踏み込むようで気が引けて、二階の観覧席から見学することにした。
聖域というのは単なる比喩ではなく、はるなリンクの作りを見るとそう形容するほか無い気がするのだ。
ここには、他のリンクにあるようなフェンスが無い。バレエスタジオのように壁が鏡張りになっている。
そして、天井は教会のように高い。
真っ白な氷が鏡に囲まれた厳かな空間。ファイナルファンタジーのクリスタルの間を彷彿とする。
何か聖なる物が安置されている気さえして、居ずまいを正さずにはいられない。
高等部の選手達がリンクに散らばる。
一際所作の美しさが目を引くのは、二年の
それから、あっちで女子マネと談笑しているのは、三年の
真ん中では、元ソチ五輪代表の
そして霧崎君はというと、リンクの片隅でスピンの練習をしていた。
細い軸で鋭く回り、やがて片足を手で掴むと腰を反らして頭上まで持ち上げた。ビールマンスピン。
こうして見ていると、やっぱりスケーターという人種は、何か別の生き物ではないかと思えてくる。
彼らは、氷上という特別な場所で、地上とは異なるルールに従っているように見える。
どんなに優れたダンサーでも、陸上ではあんなに滑らかには動けない。
氷上滑走というこの上なく特殊な運動は、多分何よりも飛行に近い。
その領域にほんの一瞬手が届いたあの日の宇宙を思い出す。
また少し胸の光が大きくなる。
しかし、そこへとーまが現れて氷に足を乗せた途端、周りの世界は一瞬で色褪せた。
全てのスケーターがモノクロに変わり、空間の彩度がとーまだけに凝縮された。
私は全身に鳥肌が立った。
聖性の塊のような氷が、とーまが滑る時だけは水面のように柔らかく姿を変え、その身体を受け入れていた。
水切りのように飛び跳ねたかと思うと、そよ風のように軽やかに駆け抜けていく。
歌を口ずさんでいるかのような無邪気な微笑みには、不敵さが宿る。
天衣無縫なその姿は、紛う事なき王だった。
一蹴り毎にガラスのマントが風になびき、氷の冠がきらめきをこぼす。
そのくせ、とーまはそれを何とも思っちゃいない。
きっと自分がそんな物を身に付けていることすら知らない。
ここは、約束された玉座。
でも、とーまはそんなのは要らないのだ。
私は気付いてしまった。
とーまにふさわしい場所は、ここじゃない。
本当にいるべき場所は、空の下だ。かつて、幼い私達がいた場所。
遮る物など何も無い、風の音と雪の結晶の囁きが聞こえるスケートリンク。
気付けば、私は涙をこぼしていた。
とーまの滑りに呼応して粒子が階段を跳ねる。
これは足音。もう卵ではなく、胎児でもない。
目覚めた透明な怪物。
かち、かち、かち。時計の音に合わせて、輪郭が明滅している。
どこへ行こうとしているの?
漆黒の目が、光のゲートを差す。
……だめ。そのまま行ったら消えちゃう。
すぐにでも楽譜の檻に閉じ込めなきゃ。
なのに、コントロールできない。したくないのかもしれない。
時計の音なんか蹴散らして、走って行きたい。
私はただ涙を流しながら、とーまを見つめていた。
「大丈夫?」
ふいに声を掛けられて、私は我に返った。
振り返ると、背の高い男の人がハンカチを差し出していた。
その控えめな微笑みには見覚えがあった。
「あっ、眼鏡先輩」
思わず、声に出てしまった。
「眼鏡先輩? ……ああ、君、体育祭の時、芝浦と一緒にいたね」
先輩は困ったように笑う。体育祭という単語に私は縮こまった。
「あの時はとーまがすみませんでした……」
受け取ったハンカチで涙を拭きながら言うと、先輩は笑って首を横に振った。
「いや、俺感謝してるんだ、あいつに。眼鏡、壊してくれたから」
先輩は、氷上のとーまに視線を向けた。
そういえば、眼鏡先輩は眼鏡をしていない。
どうして怒るんじゃなくて感謝するんだろう。意味が分からない。
「芝浦のスケート見て泣いてたね」
「……はい」
「俺もあいつのスケート見てると時々泣きそうになるんだ。泣かないけどね。……何が君にそんなに涙を流させる?」
そう言って覗き込むように私を見た。
似ている、と思った。顔がじゃない。
氷を映したような、透明度の高い目が。背丈も体格も似ていた。
まるでとーまのお兄さんみたいなこの人に、どう言えば伝わるだろう。
私は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「……とーま、変わってないんです。子供の時から、全然。あまりに変わってないから嬉しくて。だけど同じくらい、何だか悲しくて……ごめんなさい、うまく言えません」
消え入りそうに言う私を、先輩は神妙な顔で見た。
「俺も昔のあいつを知ってるから、その葛藤は分かる。……けど、あいつは変わったよ」
「変わった?」
首を傾げると、先輩は深く頷いた。
「昔は、ただ滑ってるだけで楽しくて仕方ないという感じだったね。何にも縛られなくて、従わなくて、自由で……満たされたスケートだった。それはそれで素敵なんだけど。でも、俺達そこに留まってもいられないんだよね」
そう言って先輩は再び窓の下に目を遣った。
とーまは、霧崎君とは反対側の一角で円を描き、ターンを入れたり足を変えたりして、何度もその上を滑っていた。
さっきの奔放さとは打って変わって、真剣な顔をしていた。
一歩ごとに氷から何かを受け取って、次の一歩で何かを返す。
まるでエッジを介したコミュニケーションのようだ。
「あいつは今、探してるよ。昔の自分を殺さないまま、新しく生まれ変わり、生き抜いていくスケートを。だから、君は今の芝浦を信じてあげて」
先輩はにっこり笑った。
私は意を決した。
「あの、これから何日か、私ここに来てもいいですか? 私、とーまの曲を作りたくて……そのために、とーまのスケートをちゃんと見たいんです。目を逸らしたくないんです。皆さんの邪魔はしません。お願いします」
「いいよ。パス申請してあげる。ちょっと待ってて」
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