第11話 宇宙を全部

 とーまは相当参っているようだった。

 四回転が決まらなくなってきた、と肩を落として言った。

 お弁当の箸もあまり進まない。

 時々、私達はこうして屋上でお昼を食べる。


 けど、とーまが四回転を跳べるということ自体、私は今初めて知った。

 四回転なんて物凄い大技なんだから失敗なんて普通のはずなのに、とーまの落ち込み方は少し異常な気がした。

 氷上は自分の領域だから、できないことが一つでもあるのは嫌なのかな。

 まるで遊び倒したおもちゃを壊し、泣く寸前で呆然としてる子供みたいだ。


「……この間の世界ジュニアでも、四回転跳んでたの二人だけだったよ。一位のクリスティアン・ヴァルターと二位の白河圭一郎。三位の霧崎君は跳んでなかったし」

 言ってから、何のフォローにもなってないなと思った。

 だって、とーまは氷の妖精。

 たとえ相手が五輪の金メダリストだろうと、他人なんて気にしないはず。

 でも、返ってきた言葉は意外なものだった。


「あいつは跳ぶよ。……でも、俺は分からない」

 重く連なる雲の境界で、とーまの瞳が揺れていた。

 その揺らぎに、胸の光が蝋燭のように呼応した。


「とーまは、世界を見ようとしてるんだね」

 勝手に、唇から言葉がこぼれ出ていた。

 とーまは首を傾げて振り向く。


「……俺は、俺が今何を見ているのかも分からないよ」

 そして再び空を見た。

 雲は、雨の放出を待ち侘びている。

 まとわりつく暑さが、血の濃度を上げる。


 私もそうだよ、とスカートを払って立ち上がった。

 私も、今自分が見ている光が本当は何なのか見当もつかない。

 分かるのはただ、未知ということだけ。

 私は座ったままのとーまに視線を向けた。


「霧崎君が気になるんでしょ? きっと霧崎君って他人を通して、とーまは世界を捉え直そうとしてるんだよ。今跳べないのは、新しい世界の見方に戸惑ってるからかも」

 とーまは目を見開いて、しばらく穴が開きそうなほど私を見ていた。

 そして急にふっと寂しげに笑った。


「……俺が気にしてるのは、霧崎じゃないと思う。けど、後半は同意だ」

 気合いを入れるように立ち上がる。

 霧崎君じゃなかったら、誰なんだろう。私が知らないだけで、他にライバルがいるのかも。

 でも、私はとーまの味方だから。

 真っ直ぐに目を見る。


「私、見たいな。とーまが試合で四回転跳ぶところ」

 思った以上に本音が出た。


 とーまは、ぴたりと止まっていた。まるで呼吸を忘れてしまったかのように。

 いつの間にか、瞳から揺らぎが消えていた。

 そして、凜とした目で身体ごとこちらに向き直ると、いいよ、と頷いた。


「……でも、一つ頼みがある。委員長が今作ってる曲、俺にくれないかな?」

 へっ? と間抜けな声を出して、今度は私が固まってしまった。

 とーまは矢継ぎ早に続ける。


「俺、全日本ジュニアに出たいんだ。本当は、フリーの曲が決まらなくて、ずっと迷ってた。でも、委員長の作った曲なら、俺跳べる気がする」


 私はすぐには言葉を返せなかった。

 私の曲で、とーまが滑る。

 それって、とても素敵なことに思える。

 でも。


 どくん、と胸の中で大きな音が聞こえた。

 思わず胸に手を当てる。

 ……私の心臓の音じゃない。

 これは、そう、まるで胎動のような。

 光膜の内側から、真っ黒な深淵の目が私を見つめている。

 ごくりと唾を飲んだ。


「……でも、私、とーまのために曲を作るなんてできないよ」

 出てきたのは、驚くほど幼稚な言葉。

 でも、それは裸の本音だった。

 とーまは私の言葉を丸ごと受け止めたように微笑む。


「俺のための曲なんて要らないよ。ただ、委員長が作った曲が欲しい。……だから、俺に」

 突然、湿気をはらんだ温い風が巻き上がり、声はかき消された。

 唇が、何かをくれないか、と動いた気がした。

 聞き返すより直感で、命だ、と思った。

 躊躇なく私は頷いた。

 胸の中で光がスパークした。


 あげるよ、とーま。

 それがとーまを世界に繋ぎ止められるのなら、何だってあげる。

 もう時間切れ、魔法は解けた、って言ってたね。全然解けてないよ。

 だってほら、私の頭の中の鍵盤から音が溢れてる。

 こんなにも眩しい魔法に、タイムリミットは要らない。時計の音は私がかき消す。

 とーまが見せてくれた宇宙だもん。

 これさえあれば、私は絶対に大丈夫なの。

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