第10話 星が生まれる時

 帰りの電車に揺られながら、私は窓の薄闇にさっき見た宇宙を重ねていた。


 銀色の雲の海。

 人を連れて来られたのは初めてだ、ってとーまは言ってた。

 じゃあ、いつもは一人であそこにいるの? 

 それが私の夢って、どういうこと? 

 もし本当に私の夢なら、どうしてそれをとーまが知ってるの? 


 ……訊きたいことがたくさんあるのに、とーまは寝ちゃってる。

 私の隣で寝息を立てて。首、時々ガクッてなっても全然起きない。

 ついには私の肩に寄り掛かり、落ち着いてしまった。重いよ。

 体温が伝わってくる。頬に当たる髪の毛がくすぐったい。

 そっと目だけ動かして顔を見る。長い睫毛。

 とーまの瞳は、世界をそのまま映しすぎる。

 だから目蓋が閉じているのを見て、私はこの上ない安心を感じる。

 呼吸に合わせて、胸板がわずかに上下する。

 疲れたよね。私も疲れたな。このまま、ずっと揺れていたい。


 ……本当は。

 私は、ずっとあそこにいてもよかった。

 私は、自分の身体が透けていくのを見て、何の驚きも怖さも感じなかった。

 暗闇に溶けていく感覚が、心地いいとすら思った。


 とーま、私気付きたくなかったよ。現実がつまらないなんて。

 今まで私に差し迫っていたはずのリアル。

 ちゃんとした曲を作らなきゃ。

 今年こそ全国に行かなきゃ。

 先生に認めてもらいたい。

 お母さんをがっかりさせちゃだめ。

 お父さんに心配掛けない。

 箱庭のような学校生活で、はみ出さずにうまくやる。

 心を許せる友達がたとえ一人もいなくても。


 ……けど、そんなの全部、本当はどうでもいいってこと。

 こんな世界、捨てちゃってもいいんだって。

 別に死にたいわけじゃない。

 けど、死んじゃいけない理由だって、本当は何一つ無いってこと。

 絶対に気付きたくなかった。

 どこにも帰らなくていいあの風景が、もう懐かしい。


 それでもあの時戻らなきゃって思ったのは、世界からとーまを消したくなかったから。

 私が失いたくなかったからじゃない。

 とーまを失いたくないだけなら、私はあそこにいればよかったんだ。

 二人きりで、永遠に。


 世界の中心。

 その名前を、とーまが思い出しませんようにと願う。

 何か取り返しのつかないことが起きる気がして。

 思い出せば最後、変わったことなど分からないほどに、きっと全てが変わってしまう。


 委員長、と膝を叩かれてハッとした。

 とーまの肩に寄り掛かっていることに気付いて、慌てて頭を起こす。

「……やだ、私寝てたんだ」

「疲れたんでしょ」

 サラリと笑う。

 ……寝てたのはとーまじゃなかったの。



 駅に着き、覚束ない足取りのままホームに降りたら階段の前で霧崎君に会って、一気に目が覚めた。

 大きなスポーツバッグを持っていたから、多分練習帰り。

 最近、霧崎君は痩せた。

 中性的な顔立ちからは、いつの間にか柔らかさが消えつつある。よく言えば精悍。

 でも私には、その瞳の鋭さは危うさと紙一重に見える。

 それこそ、氷上のエッジのように。


 霧崎君はとーまを露骨に睨み付け、それから私を一瞥した後、再びとーまに視線を戻して言った。


「いい気なもんだな。お前、遊んでる場合かよ」

「……それが俺には一番大事なの」


 いなすように軽く笑い、とーまはすたすたと歩き出した。

 おろおろして、じゃあ、とか言って去ろうとした私に、霧崎君は声を投げてきた。


「山崎。君の音楽も遊びなのか」


 足が止まった。唇を噛む。

 ……遊びなんかじゃないって言わなきゃ。

 言葉が電光掲示板みたいに走り抜ける。

 でも、私は固まったように動けなかった。視線が、背中にビリビリ来る。

 私にとって、音楽は。

 息を吸い込み、足にぎゅっと力を入れて振り返ろうとしたら、とーまがぐいと私の腕を取った。


「行こ、委員長」

低い声で言って、強引な足取りで歩き出した。その力に引っ張られて、結局、私は霧崎君の顔も見れなかった。


 とーまの横顔は妙に張り詰めていて、私が霧崎君に言葉を返すのがすごく嫌そうに見えた。

 でも、私はといえば、とーまに遮られてホッとしたというのが本音だった。

 だって、あの時振り返って「遊びなんかじゃない」と言ったとして、それが何になるっていうんだろう。

 確かに、霧崎君の言葉は刺さった。

 でも、痛い所を突かれたとか図星だとかじゃない。

 深淵に足が止まったのだ。


 私にとって音楽とは何か。

 少し前までは、手段だったと思う。世界に、私を認めてもらうための手段。

 あるいは、証。私という存在の、世界への刻印。


 ……でも、今は違う。

 私の音楽は、像ではなくなってしまった。

 意味とか目的とか理由とか。スポットライトのように私を照らしていた外からの光源が、消えてしまった。

 誰のせいで? 

 ……もちろん、とーまのせいだ。

 あんなモノを見せられてしまったから。


 でも、光の差さない音楽を、手放せないのはなぜなんだろう。

 暗闇の中手探りで形を確かめたとして、どうやって奏でればいいんだろう。

 一人きりで、抱いて眠ればいいの? 


 寝返りを打つ。時計の音が耳障りで眠れない。

 ……今までは、こんなに聞こえなかったのに。

 目を開けると、十一時五十五分。もうすぐ日付が変わる。


 起き上がり、エレクトーンの椅子に座った。

 楽器の前が一番落ち着く。

 でも、目の前の楽譜はもはや分断された記号の群れにしか見えない。

 溜息をついて、目を閉じた。

 かち、かち、かち。

 家は静かだ。

 お母さん、もう寝たかな。

 規則的に刻む針が私に迫る。


 どれくらいそうしていただろう。

 突然、ぽろろんと音がして、ハッと顔を上げた。

 でも、私の身体は楽器に触れていない。

 それは頭の中の鍵盤の音だった。

 私は再び目を瞑り、心の瞳の焦点を合わせた。


 ……鍵盤が、階段の形になっている。

 遙か先には、一点の光が見えた。

 私の身体の奥に生まれた、小さくて淡い光。

 直感で、どこかへ繋がっていると思った。

 別世界へのゲート。どこへ通じているの。

 輪郭が見たい。もっと大きく育てなきゃ。


 楽器の電源を入れてヘッドフォンを付けた。

 ここは、時計の音がしない。

 鍵盤に触れると、チェレスタの音が瑞々しく響いた。

 そのまましばらく、あの日の雪のメロディを何度も弄んだ。

 窓の向こうの夜空に目を遣る。

 あれとそっくり同じモノが、私の体内に広がっている。

 闇に散らばる名前も知らない星々。

 そこに一つ、光が加わる。

 本当に、星が一つ生まれたんだ。


 私は書き込みで汚された楽譜を掴むと、ぐしゃぐしゃに丸めてぽいと捨てた。

 フランケンシュタインにさよなら。



「最初から曲を作り直させて下さい」


 次のレッスンで、私は大野先生に告げた。

 先生はぽかんと私を見た後、眉を顰めた。


「里紗ちゃん、本気で言ってるの? 今から作り直すなんて、すごいハンデだって分かってる?」

「……いいです。それでも、やります」

 先生は驚いたように目を見張った。

 多分、自己主張する私を初めて見たからだと思う。


「ふうん。ま、いいんじゃない。やってみなよ」

 じゃ、早速インプロ。八小節ずつね。

 先生は私の向かいに座ると、Gmをさっと押さえた。

 その空気感のあるストリングスの音色が、いいと思った。吹雪に消えるシュプール。

 飛沫のようにリズムが鳴る。初めて聞く四つ打ちのダンスビート。

 くるくると自在に舞うとーまの残像が、一瞬現れて消えた。

「あっ、もっと速く」

 言ってから、しまったと思った。

 でも、なぜか先生はニヤリと笑い、いいよと言ってテンポを上げた。


 その日の即興演奏は、今までで一番うまく行ったと思う。

 無意味なループが一度も無かった。

 私のフレーズに先生の音が被さり、クライマックスを作って無事に終わった時、泳ぎ切ったような爽快な疲労感と、深く根差した達成感があった。

 イメージに音が反応し、波が襞となる。その増幅。

 これがインプロなんだ。今までのは、全部真似事だった。


「……別人だよ。何があった? 」

「夢を、見たんです」


 音の宇宙に浮かぶ夢。妖精との夜間飛行。

 ほんの少しでも思いを馳せると、一瞬でトリップしそうになる。

 ほら、今もそう。踏みしめないと、地に足が付かない。


「なるほどね。俺も君くらいの年にはよく見たな。夢は、イマジネーションの海だ」


 懐かしそうに言う大野先生を、私は冷めた目で見ていた。

 先生。悪いけど、全然違います。

 光のゲートは具現化の真っ最中。

 眩しすぎて、結末なんてとても見据えられない。

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