第9話 Escape to space、あるいは世界の中心
呆れた話なんだけど、とーまはスケート靴を忘れてきてた。
へらへら笑って、信じらんない。
仕方なく、一緒にカウンターで靴を借りた。
ひとたび氷に乗った瞬間、とーまはまるでその靴を昔から履いてるみたいにひょいひょいと滑り出した。
五年ぶりに見る、とーまの滑る姿。
すっと伸びた背筋。
真っ直ぐな脚。
滑らかな動きで、直線と曲線の軌道を自在に乗り換えていく。
私は目を見張った。
今まで陸上で見ていたとーまは、仮の姿だ。
人間って絶対に、いるべき場所ってのがあると思う。
とーまは、氷の上。
……私は、どこなんだろう?
おずおずと足を進めてみる。
危なっかしくて懐かしい氷の感触。
北海道でのスケートの記憶が蘇る。
そういえば、あの頃はいつも空の下で滑ってた。
雪がちらついたり、風が強かったり、日毎に条件は違ったけれど、それが当たり前だと思ってた。
屋根のあるリンクで滑るのはこれが初めて。
だからほんの少しだけ、思い出と重ならない違和感がある。
「とーまは滑ってる時に分からなくなることないの? 靴がフィギュアかスピードかって」
「無い」
氷の上でポケットに手を突っ込んだまま、とーまはきっぱり言い切る。
「モードが決まるんだ。一度設定すれば、もう覆らない。靴を履いて氷に乗るだけで決まる」
少し考えてから、そうかも、と私は我が身を振り返る。
「……確かに、私も今弾いてるのがエレクトーンかピアノかなんて突然迷い出すこと無いかも」
すると、はたと止まって振り返り、
「でしょ? そうでしょ?」
とーまは身を乗り出してきた。
近い、近いよ。
「やべー、なまら嬉しい。こんな話ができる人が世界にいるなんて。小学生の時、もっと委員長と話してればよかったな。けど、今こうやって話せるからいっか」
笑うと、えくぼが顔を出す。
もっと話してればよかったな。
私も、ずっとそう思ってた。
ドキドキが何倍にも増幅する。
けれど同時に、不安が湧き上がる。
そんなことを口にするなんて、あの約束を覚えていない証拠じゃないかって。
確かめてしまえば楽になれるのに、甘い気持ちにピリオドを打つのが怖くて、やっぱり私は何も言えない。
足場を氷上に変えたって、臆病さが変わるどころか、立っているだけで精一杯だ。
日曜だからか、リンクはすごく混んでいた。
ヘルメットをかぶった幼児から本格的な選手まで、色んな属性の人間がスケートをしてる。
なのに、とーまはまるで周りに誰もいないみたいに、するすると氷を縫うように滑っていく。
避けようとしてないのに、誰にもぶつからない。
私は、転びそうになりながら、ぶつかりそうになりながら、どうにかとーまについて行く。
「……なんかごめん、私ほんとに下手で」
消え入りそうに私は言う。
本気で滑れば、多分とーまはここにいる誰より速い。
「ううん。俺、委員長と滑るの好きだよ。だって、今は意味も目的も理由も要らない。ただ氷の上にいるだけでいいからさ。何周だって滑っていられるよ。……ずっとこうだったらいいのにな」
見上げた横顔があまりにも寂しげで、私は急に世界から切り離されたように、周りの喧噪が聞こえなくなった。
こんなに大勢の人の中、静寂の膜が私達を包んでいた。
「……大げさ」
私はぽつりと言って、そっと止まった。
ブレーキを掛けて、とーまが振り返る。
「私がフィギュアスケーターだったらよかったのにね。アイスダンスとかできるかも?」
そして私はシャルウィダンスみたいに両手を出してみた。
とーまは少しの間目を見開いた後、溜息をついて首を横に振った。
「何言ってんのさ。今のままがいいんだよ。アイスダンスなんかやってもつまんないよ」
私の両手は宙に浮く。
たちまち恥ずかしくなって手を下ろす。
「じゃあ、スピードスケートのパシュートは? 男女混合の、あったじゃん」
「それもだめ。分からないかなあ、そのままでいいんだって」
小さく呟いたかと思うと、急に思い立ったように
「……ねえ、もっと遠くへ行こう」
ぞっとするほど綺麗な声で囁いた。
「えっ」
遠くってどこ、と問う暇も無く、
「絶対に俺の手を離さないで」
私の手を握ってニヤリと笑うと、とーまは滑り出した。
わけが分からないまま、私はぐい、と引っ張られる。
その瞬間、足元の感触がぬるりと変わって、鳥肌が立った。
さっきまで一歩ずつこわごわと出していた足が、信じられないほど滑らかに動いていた。
とーまは加速する。
私も前に進む。
何これ。こんな感覚、知らない。
知らないのに、ずっと昔から染み付いているみたいに脚が動く。
自分とは思えないほど身体が軽い。
重力が剥がれ落ちていくのが分かる。
まるで空を飛んでるみたい。
……違う。
本当に、飛んでる。
浮いた足が、景色をすり抜けていく。
ぐるぐる回りながら、だんだん透明になって、ついには輪郭だけを残して遠ざかる。
その輪郭も、灰色から青、青から藍、藍から黒、どんどん濃くなっていく空気の色に飲み込まれて、やがて見えなくなった。
まるで皆いなくなってしまったみたいに。
あるいは、私達だけ消えたみたいに。
ダイヤモンドダストのような煌めきが星だと気付くのに、時間が掛かった。
もう私は飛んでいない。
宇宙に浮いていた。
気付けば足の下には、白く折り重なった夥しい雲。
星の海の中、地球を俯瞰していた。
「……やっぱりな。絶対できると思った。けど、人を連れて来られたのは初めてだ」
とーまは大がかりな手品に成功したみたいに得意げに笑う。
「どういうこと? とーま、一体何をしたの?」
「あっ、そこ。危ないよ」
足元を緑色の電気の波が走り抜け、ひゃっと叫んでとーまの腕にしがみついた。
その身体の軸の確かさに驚く。
私はとーまに触れてないと無重力の中、今にも浮き上がってしまいそうなのに。
「……なんて、ウソ。危ないことなんか何も無い。だって全部、俺達の足の下だ」
とーまは不敵に呟いて、雲間に踊るオーロラを見下ろす。
瞳は鏡のように、光の帯が波打つのをそのまま映していた。
澄みきった美しさに、息を呑んだ。
でも、空気が無いはずなのにどうして息ができるんだろう。
もしかしたら、私達今していないのかもしれない、呼吸。
「からかってるの? ここはどこ?」
「世界の中心。……でも、その名前がどうしても思い出せない」
「世界の中心に名前があるの?」
「あるよ。美しい名前が」
「思い出せないのに、美しいって分かるの?」
「分かるよ。どうしてかは分からないけど、分かるんだ」
呟きながら、とーまは足元に広がる世界を見ていた。
宇宙の透明な風に吹かれて、雲は波打ち、重なり、渦を巻く。
その隙間から、見慣れた列島の形が顔を出した。
あそこに私達の本当の居場所があるんだ。
日本。群馬。高崎。
……目を凝らして、馬鹿みたいだと思ってすぐにやめた。
たとえ見つけられても、きっと実感なんて露ほども湧かない。
あまりにも高くて、あまりにも広い世界。
本当に、遠い所に来てしまった。ここは静かだ。
「……どうしてこんな所に私を連れてきたの? 」
「俺だけの力じゃないよ」
とーまはきっぱり言って、私の目を覗き込んだ。
ビー玉のような瞳に、星屑が明滅する。
「……ねえ。今から言うことをずっと覚えていて」
そう言って私のもう片方の手を取ると、両手でぎゅっと握った。
「俺は、見える人にしか見えない。だから、俺が見えてる時点で、本当は委員長は何でもできるんだ」
曖昧な言葉は身体をすり抜けていく。
唄のようにも聞こえるし、言葉遊びのようにも聞こえる。
切なさだけが胸に募る。
分からない。
とーま、一体何を言っているの?
心の声が聞こえているみたいに、とーまは柔らかく微笑む。
「分からないって顔してる。……でも、前にもこんなことがあったよね」
ふわりと私を遠心力で回すと、とーまは滑り始めた。
雲の上を、緩い弧を描きながら浮遊していく。
私はただ振り落とされないように強く手を握り、身を委ねるだけ。
とーまのエッジは、羽根のようだと思う。
鋼鉄の羽根で雲をかき混ぜる妖精。
「俺、気付いたら一人で氷の上にいた。教室で授業中だったはずなのにさ、いつの間にか一人で。……でも、本当は一人じゃなかった。空から音が降り注いでたから。あの時は、姿が見えなかった。けど、今なら分かる。あれは委員長だったって」
細められた目から光が溢れる。
鼻歌のように流れる声には、ずっとエコーが掛かっていた。
あの雪の日の、魂のセッション。
恍惚と、音に耽溺していた私。
氷上で、音と戯れていたとーま。
一方的じゃなかったんだ。
幻なんかじゃなかった。
「ねえ。またあの時みたいに遊ぼう。ここでずっと俺と遊んでいよう」
雪玉を転げ落とすような無邪気さでとーまは言う。
……あの時みたいに。
遊ぼう。
遊んでいよう。
ここで、ずっと。
言葉はめくるめく速さで螺旋を描き、脳に落ちてまた響く。
とーまの瞳が濡れたように煌めきを放つ。
もう、どこにも帰らなくていい。
頷こうとしていた首が、脊椎ごと一瞬で凍り付いた。
私の頬に手を伸ばす、その指先が透けていた。
「何言ってるの、とーま。こんな所にいたらダメ。……これは、夢だよ。ずっと夢の中にいることはできないよ」
半透明の指先を捕まえて、私は言った。
まだ触れることに安堵する。
「夢? 誰の夢だよ? 」
眉を顰めてとーまは言う。
「とーまの夢だよ」
「委員長の夢じゃないの? ……そうやって考えて喋れて、そこから俺が見えるなら、そうでしょ」
絶対零度の眼光に貫かれる。
いつの間にか、私の指までガラスのように透けていた。
指だけじゃない。
腕も、胴も、脚も。
……とーまの言う通りだ。
じゃあ、これは私の夢なの?
その瞬間、掴んでいたはずの指先が消え、私は落下した。
喧噪。
目を開けると、コンクリートの壁と白い氷が飛び込んできた。
私は腰元でとーまの腕に受け止められていた。
「……手。離すなって言ったでしょ。死にたいの?」
冷淡な声で、とーまは囁いた。
ぎこちないエッジで足元を確かめる。
固い氷。
爪先、透けてない。
「何だったの、今の」
上体を起こし、私はとーまから離れた。
重力で感覚が何段階も鈍い。
「魔法。……でも、もう時間切れ。ほんと現実ってつまんねー」
とーまは溜息をついて頭を掻くと、醒めきった眼差しをリンクに投げた。
魔法だなんて。
唇を固く結ぶ。
……分かってない、とーま。
あそこにいる方が死ぬんだよ。
足元に視線を落として、私はぞわりと鳥肌が立った。
とーまの靴。
フィギュアでもスピードでもない、アイスホッケーの靴。
どうしてそんなの履いてるの。
ううん、違う。
どうして両方とも履かないの。
……本当は、わざと靴を忘れてきたの?
でも、とーまがいきなり無言で滑り出してぎゅんと引き離したから、私は何も言えなかった。
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