第8話 燐と祀-3
「ふわぁ~あ……欠伸しすぎて顎が痛い……それにしてもいい天気だなぁ今日は」
窓から差し込む朝日に目を細めつつ燐は階段を降りる。窓の外では小鳥がさえずり、大きな雲がゆっくりと澄み渡る青空を流れていく。最近は何かと物騒なことが多く、どうしても気持ちがふさぎ込んでしまいがちなのでこういう晴れの日というものはありがたい。ついでに幸いなことに昨晩の電波障害もいつの間にか収まっていた。
(……にしても昨日のアレは何だったんだろう。俺は本当に気を失ってたあの子を介抱しただけか? 何かヤバいことに巻き込まれたんじゃないのか? もしあの『死』のイメージが本当なら……)
階段を降りる途中で止まり、燐は思案に耽る。胸とこめかみに走った痛みも今は無く、瞼の裏に焼き付いたあの謎の光景も大分薄れている。しかし何だか引っかかるものがあり、目を覚ましてからずっと燐は僅かにモヤモヤしたものを抱えたままでいた。
「……まぁいいか! 風呂にでも入って汗を流せばこんな悩みも一緒に流れてくだろ!」
いつものように深く考えるのはやめて前向きになった燐は着替えを小脇に抱え、一直線に脱衣場へ向かう。湯船は社務所の中ではなく外に設けられた小屋の中にあり、おまけに露天風呂もきっちり用意されている。しかもお湯は水道から引いているのではなく天然温泉であり、疲労回復神経痛筋肉痛関節痛肩こり高血圧冷え性リマウチ動脈硬化美肌作用その他諸々……と、あらゆる身体の不調を回復させる効能が含まれているのはひとえに温泉好きである獅童のこだわりである。月に一回ほど、予約制だが一般に開放する場合もあり、その時ばかりは多くの参拝客が温泉目当てにやって来る程だ。
燐は生地の薄い寝間着のままやや肌寒い外に出て、脱衣所の暖簾をくぐる。普段は神主の一人暮らしなので特に必要性は無いのだが、実際の銭湯のようにそこには着替えを入れるカゴが一面に並んでおり、貴重品を入れるロッカーやオマケに瓶の牛乳を収納している冷蔵庫や天井の隅にはテレビまで完備している。
燐は上機嫌に鼻歌を奏でながら寝間着を脱ぎ捨て、シャンプー・リンス・ボディーソープ・スポンジ・剃刀・アヒルさんを収めた桶を抱えて浴場に向かう。磨りガラスの扉の向こうで待っているのは大人数で肩まで浸かれる立派な湯船やサウナだ。狛犬がお湯を吐き出すのが見どころであり、ジャグジーも搭載されている。しかも当初は水風呂や電気風呂も付けたかったようだが予算の問題で断念したらしい。
「わぁ~すごい湯気だなぁ~」
燐は男らしくタオル一枚纏わぬ仁王立ちで扉を開け放ち、神聖なる浴場に足を踏み入れた。浴場は白い湯気で充満しており、見通しが悪い。どうやら換気扇は回っていないようだが、よく目を凝らすと湯気の向こうに人影があるのがわかった。おそらく獅童だろう、彼は毎朝起きてすぐやることが入浴である。燐より先にここへ来ていたようだ。
「おはよー。いやぁあんまよく眠れなくてさぁ、欠伸のし過ぎで顎が外れそうで参っちゃうよねハハハ」
燐は気さくに挨拶し、ゆっくりとその影に近づく。しかしなんだか燐はその人影に違和感を覚えた。あの神主は燐よりデカイ筈だが、シャワーを浴びているその影は明らかに燐より背が低い。更に肌は白く、髪は銀色で腰まで届く程長い。体型もスリムだが出るトコは出ていて女性らしい。明らかに獅童とは別人だ。
誰だ、と燐の頭は真っ白になった。今この神社に居るのは自分と獅童だけの筈だ。他に住人は居ないし、今日は一般客に開放してもいない。では目の前の人物は一体……と、そこまで至って燐は昨晩の出来事を思い出した。そう、自分と獅童以外にもうひとり居たではないか、自身が助けたあの少女が。それに気づいた燐の顔は強張り、全身からブワッと冷や汗が噴き出した。身体が硬直し、言葉が詰まる。フリーズした燐に対し、シャワーを浴びていた少女も視線に気付いたのか身体を洗う動きを止め、きょとんとした顔をその痴れ者に向けた。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
直後、浴場に甲高い悲鳴が轟いた。
ちなみに絶叫したのは少女ではなく、燐である。
というか自分でも何で少女が叫ばずにこっちが叫んでいるのか意味がわからないし自分の大声にビビった。とにかくここを出なければ、とテンパった燐は腰の位置で抱えていた桶を落とし、高速で回れ右をするとそのまま全力疾走で足を滑らせることもなく脱衣所へ退散し、後手で扉を締め、大慌てで服を着る。息が荒くなり、心臓がバクバク鳴る。
目の前で生の女の子の裸を見たのなんて初めてのことだった。血行が良くなって赤みが差した、水を弾く白い肌。しっとりと濡れて肌に張り付く艷やかな長い髪と僅かに曝け出された色気のあるうなじ。すらっとした手足。綺麗な形でなおかつ程よい大きさに実った胸。細めではあるが健康的な丸みのあるお腹。丸くて肉付きの良いお尻。むっちりとした太もも。そして上気した端正な顔立ち。どの要素も好きな女の子のタイプに合致していてかーっと燐の顔は熱くなった。
「見てしまった……それに見られてしまった……」
絶対に出会うべきではないタイミングで出会ってしまった。その現実に直面してしまった燐はよろよろと力無く脱衣場を後にする。今思い返してみれば脱衣場のカゴに残されていた脱いだ服など、いくらでも途中で気づくポイントなんて存在した。それ故に己の間抜けさに燐は頭を抱える。
思春期の男子にとって一番恐ろしいものは歳の近い異性に嫌悪され、遠ざけられることである。それに女子の話題の拡散スピードというものはとても速く、その醜聞はあっという間に多数の女の子の間で共有されてしまう。そうなったら最後、女子の聖なる湯浴みを覗いた変態は周囲から蔑まれ、一生その十字架を背負って生きていかねばならない。
「うわああああああああ!! もうおしまいだああああああああああああ!!」
境内に燐の懺悔の叫びが響き渡り、小鳥が一斉に飛び立った。
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「……」
浴場にひとり取り残された少女はままじっと磨りガラスの引き戸を見つめていた。既にその向こうの脱衣所に他者の気配はなく、ただシャワーからお湯が噴き出す音しか聞こえない。いや、蛇口を締めて耳を澄ますとどこか遠くから「お前まさかあそこ入ったんか!? お前まさかあそこ入ったんか!? 死ぬほど洒落にならないくらい怖いわあああああああ!!」「ちょっと待ってくれ!! あれは悪気なんて無くてただの事故だったんだああああああああ!!」などと騒ぐ声が聞こえたがまだ早朝だし多分気のせいだろう。
少女はシャワーのノズルヘッドを側のフックに引っ掛けると、じっと目の前の鏡に映る己の裸体を見つめる。特に言及することなど無い、年相応に発達した女性の身体だ。裸を他人に見られたことなど初めてだが、こんなものを異性に見られたところで驚きこそすれど特に羞恥心などは無かった。故に、今少女の胸中に渦巻くモヤモヤは別の点にある。
「……見られちゃった、私の身体。気づかれちゃったかな……私の秘密を……」
少女は沈痛な面持ちで胸をぎゅっと抑え、鏡に額をくっつけるとそのまま力無く冷たいタイルの床に座り込んだ。その小さな背中は弱々しく、力なく下がった肩はわずかに震えている。少女の頬を何か熱いものが流れたが、それが湯の雫なのか涙なのか今の彼女にはわからなかった。
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社務所の居間では惨状が繰り広げられていた。畳の上では燐が大の字でうつ伏せになりながら倒れ込んでいる。まさに満身創痍といった様子で、指先ひとつ動かすのも難しいようだ。対して燐をボコボコに折檻した仁王立ちの獅童は腕組みをしながら険しい顔で燐を見下ろしている。
「いやぁ~悪かったねぇ、ウチのアホがとんでもない非行を働いて」
「あ、いえ……全然気にしていないので……というか大丈夫ですか彼……」
「ああ心配しなくてもいいよコイツ無駄に頑丈だし」
「このクソオヤジひとの耐久度以上にまずは俺の人格とか中身を信用しろよなマジで!」
わなわなと怒りに全身を震わせた燐はうつ伏せの体勢からすくっと起き上がる。持ち前の打たれ強さにより短時間で回復に至ったようだがそれでもダメージが少しばかり残っているようで、すぐによろけてしまう。しかし倒れないように誰かに腕を捕まれ、そのまま引っ張ってもらう形で身体を起こしてもらった。
「あ、ありがとうっ! あとさっきはほんとごめん……マジでキミが居るのに気が付かなかったんだ」
「いえいえ、そんな深々と頭を下げないで下さい少しも気にしてませんから! それに昨夜倒れていた私を助けてここまで運んでくれた命の恩人ですし……」
燐は自分を起こしてくれた少女に感謝と謝罪の言葉を述べる。対する少女は両方の掌を向けて遠慮気味に答えた。寧ろ申し訳なさそうなのは少女の方で、照れているのかほんのりと頬が赤くなっている。
「ああそうだった! 身体の方は大丈夫? ずっと目を覚まさなかったから心配してたんだ」
「は、はいっ! お陰様でもう問題無いみたいです。心配してくれてありがとうございます!」
少女はにっこりと笑みを浮かべ、元気なのをアピールするように両腕をガッツポーズにして構えた。そんな少女の様子を見て後ろめたさのある顔をしていた燐も安堵の笑みを浮かべる。もう少女の身体については心配はなさそうだった。
「そういえば自己紹介がまだでしたね。私は
「俺は
銀髪の少女……祀は照れくさそうにはにかみながらおずおずと手を差し出し、燐もそれに応じて右手を向け、握る。柔らかく、温かいすべすべの肌だ。燐は当然異性の手どころか身体にも触れたことなんて一度も無いのでただの握手なのになんだかとても緊張する。手汗が滲み出してきたらどうしようなんて不安になってきた。しかしそんな時、
「……っ?」
突如、燐の脳裏に謎のイメージが浮かんだ。炎に包まれた視界。煙で息苦しい喉。肌を炙るような熱気。遠くから聞こえる怒号や悲鳴。鼻を突くような何かが焦げる異臭。そして目の前で倒れている幼い少女。
「あのぅ……」
「おい燐どうしたんだよいきなりポカンとして。こんなカワイイ子を前にして気を失ったか?」
「えっ? ああごめん!」
困ったように眉を下げ、顔を赤くした祀の顔を確認し、燐は慌ててその手を離した。どうやらぼーっとしている間ずっと彼女の手を握っていたらしい。恥ずかしそうな祀の俯けた顔に燐はやっちまったと頭を抱えそうになったが、ふと横を見ると獅童は妙に神妙な面持ちで燐の顔を見つめていた。普通ならこういう時は燐の挙動不審っぷりを全力でからかいそうなものなので黙っているのが逆に気になる。
「あっ、そういえば燐くんが倒れている間に朝ごはん作っておいたんです。お口に合うか自信はありませんけどよろしければどうぞ!」
「おおっ美味しそう!」
気まずい空気を払拭しようとしたのか、祀は小走りで暖簾に仕切られた台所へ向かい、すぐに三人分の料理を載せたお盆を持って戻ってきた。燐と獅童は祀が作った朝餉を目の当たりにし、感嘆の声をあげる。よく粒が立ったつやつやの白米、味噌と出汁がよく薫る豆腐の味噌汁、こんがりと程よく焼けた鮭の切り身、緑が鮮やかなほうれん草のおひたし、程よく付いた焦げ目が食欲をそそる卵焼き、どれもこれも見事な出来栄えであり、とても冷蔵庫の中で賞味期限切れを間近に控えていた食材で作られたものには到底見えなかった。
「いただきます!」
燐は食卓に並べられた朝食に目を輝かせ、手を合わせるとすぐさまそれらに箸をつけていく。どれもこれも絶品で、そんじょそこらの食堂や料理店と同じかそれ以上に美味しいかもしれない。使われている食材はみんな安物のはずなのでひとえにこの味は祀の腕の高さによって実現している。口に含めば含むほど逆に空腹を感じるようで、全く箸が止まらず、気がつけばあっという間に燐は出された料理を全て平らげていた。
「ごちそうさま! すごい美味しかったよ、栄養バランスもよく考えられてるしプロとしてお店出してやっていけるんじゃないかなぁ」
「こりゃ良いお嫁さんになるなぁ祀ちゃん、ずっとウチに居て欲しいくらいだぜ。それに看板娘になる巫女さんが居てくれると参拝客も増えるだろうしな。今も特にどっかに住処を構えず宿暮らしなんだろ?」
「あはは……ありがとうございます。一応階位も持ってますし各地の神社で何年か奉職したこともありますけど……すみませんがその申し出は断らせていただきます」
「そうかい、そりゃ残念だ……でもどうしてだい?」
「あまり詳しいことは話せませんがこちらに長居はしていられなくて……」
「そっかぁ……各地の神社を転々としてたってことはなんか捜し物でもしてたの?」
「まぁそんなところです。もう少しで見つかりそうなんですけど……」
「そっか。早く見つかるといいね」
申し訳無さそうに苦笑いを浮かべる祀に燐は気休め程度にしかならない言葉をかける。正直なところ、燐は自分たちと一緒に居られないという祀の言葉にやや気を落としていた。心のどこかでは獅童のように、神社に来て欲しいとは言わないまでも、この繋がりを持ったままで居たいと思っていたのだ。しかし彼女が断る以上、こちらもそれ以上食い下がることは出来ないし、その意志を尊重すべきだろう。
「……でもさ、もし良かったら俺にもキミの探しもの手伝わせてくれないかな?」
「えっ? でも私個人のことだしそれにキミにまた助けてもらうのは……」
「別にそんな遠慮する必要なんて無いって。困っている人を放っておくなんてできないしさ。それに一度助けたら最後まで面倒見ないとだし」
「でも……」
「いいじゃないか。甘えられる時には素直にその厚意に与った方が色々得するぜ。そりゃ遠慮がちなのは確かに美徳だがそればっかりじゃ損もするしな。それにコイツは見返りなんて求めない馬鹿が付くお人好しだしとことん利用しちゃいな」
「少しは言葉を選ぶとかそういう心遣いもできないのかねこのクソオヤジは……まぁとにかくそんなだからさ、どうか頼ってくれよ。それに俺もこのあたりの土地勘取り戻したいし丁度良い機会なんだ」
「そうですか……わかりました、ではお願いします燐くん」
「ああそれと俺のことは燐でいいよ。敬語も必要ないし。そっちのほうがお互い気楽だろ?」
「はっ、はい! ええと……ありがとうね燐」
顔を赤らめて恥じらいを見せながら祀はぺこりと頭を下げ、にこりと笑いかけると燐も自然と笑顔になった。さっきまではややお互いにぎこちない空気が漂っていたが、この短時間でちょっとお互いの距離は縮まった気がする……多分燐の気のせいかもしれないが。あとなんか後ろの方で「抱けーっ! 抱けーっ!」と小声で不審者が囁いていたので適当に肘打ちを打ち込んでおいたがそれっきり変な声は止んだので多分幻聴だろう。
「じゃあ早速だけど行こうか祀、忘れ物とか無い?」
「うん、準備完了だよ燐」
朝食を食べ終えた燐と祀は最低限の荷物だけ持って部屋を出る。なんだか畳の上にへばりついてる不審者が力なくサムズアップしていた気がするが燐は見なかったことにした。そう、だってこれは人生始めての女の子とのデートなのだから。
灰の葬装者―シロクロノブレイザー― よはん @yohan_4jo
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