第5話 カップ麺

 責任を持って、その約束が矢杉には今、ずっしりとした精神の重りになっていた。

 少女を軟禁室から解放する段階までは想像できていた、しかし少女を匿う場所が必要であることに解放する段階まで気付かなかった。

 少女の居場所を提供してくれるような心の高原みたいに広い知り合いはおらず、止む無く自室に少女を起居させることになった。

 助力を約束した夜が明け、この日大学での予定のなかった矢杉は煎餅布団の上で目覚めた。

 埃を孕んだカーテンの隙間から、ワンルームの狭い部屋に陽光が射しこんでいる。

 矢杉は上体を起こして捻り、いつもと同じようにテーブルに手を伸ばしかけて、視界に昨日までは部屋になかった存在を認識する。

 彼の布団の横、床に直で安心感を得た時しか出ないような穏やかな寝息を立てて横たわっている少女がいた。

少女を見て、昨夜の記憶が一気に蘇ってきた。ドラマみたいな事態になったな、と自身の現状を鑑みた。

 少女が寝がえりを打ち、矢杉の腕に接触する。

 警戒心が微塵もないな、と熟睡する少女を見て思った。

 普段と変わらぬ朝の営みのため、矢杉はちゃぶ台上のスマホを手にして台所へ移動した。

 コンロの上に置いたままの薬缶に、掛け釘に掛かったカップを取り、そのカップに目測で蛇口の水を入れた。またその水を薬缶に注ぐ。

 水を注ぐ同じ行為を二回続けてから、薬缶に蓋をしてコンロで熱した。

 視界の端で少女が身じろぎするのが気に掛かり、そちらに目を移す。

 矢杉が向けてくる視線を感じ取ったのか、少女が彼の方に身体を床上で反転させる。

 真っ向から目が合い、互いに意味もなく見つめ合った。

 矢杉の無感情な視線が堪えられず、少女の方が沈黙を破る。


「今、どういう状況?」

「昨日と変わってない。研究棟から逃げてきた時と同様、俺の部屋だ」

「あのオヤジは、来てない?」


 少女は少し不安げに問う。


「ああ」

「よかった」


 ほっと息をついて表情を緩めた。

 少女から質問がされなくなると、矢杉は薬缶に注意を戻した。

 しばしの何の言葉もない数分の後、少女は他に関心が無い様子で薬缶を眺める矢杉に歩み寄る。


「何をしてるの?」


 ちらと矢杉は少女を見る。


「水を温めている」

「何のために?」

「俺の朝食の用意だ」

「その水を飲むの?」

「馬鹿言え。お湯でカップ麺の麺を溶かすんだよ」

「カップ麺、何それ?」

「知らないのか?」


 意表を衝かれたような驚きの目を、少女に向けた。

少女は純粋に頷く。


「世間知らずなんだな。記憶戻ったんじゃないのか?」

「記憶は戻ったけど、カップ麺というものは見たことも聞いたこともない」


 カップ麺も知らないのは予想外だったが、野山で暮らした弊害か、と矢杉はすぐに納得する。

 しかしどうカップ麺をどう説明したものか、と彼が頭を悩ましていると、急に少女がしょぼんと項垂れるのが目に入った。


「どうした?」


 突如の気落ちが疑問で、身体を少女の方に少し倒して訊く。


「どうしたって、当たり前のことも知らないのが申し訳ないのよ」

「徐々に知っていくんじゃないか。研究で連れてこられるまで山で生活してたんだろうから、仕方ないことだ」

「迷惑かけるかもしれないけど、いいの?」

「迷惑はかけないでくれ、ただ単純な質問なら迷惑のうちには入らないから安心しろ」


 視線を合わせもせず、矢杉は答えた。

 薬缶の注ぎ口から湯気がもくもくと噴き出る。つまみを捻ってコンロの火を消した。

 少女の視線に腕の動きを追われながら、コンロ下の物入れから底の方が細い円柱型のカップ麺を取り出した。透明な包装を破いて薄い蓋を剥がし、調理台に置く。薬缶の持ち手を掴もうとしたところで、ねえと少女が問う。

 矢杉は持ち手の上で止めたまま、少女に振り向く。


「どうした?」

「そのお湯を今からどうするの?」


 はい/いいえで答えられる質問にしてほしいな、と説明するのを面倒に思いながら、簡潔に返答する。


「このカップ麺に入れるんだよ」

「へえ。それで、入れるとどうなるの?」

「中の麺が溶ける」

「ふうん」


 おざなりな相槌を打つ。少女にそれ以上の興味はなくなった。

 少女の質問が止むと、矢杉はカップ麺に意識を向け薬缶のお湯を注ぐ。

 お湯に浸った乾麺が、溶解するように柔らかにほぐれていく。

 麺がほぐれ始めるのを視認しパッケージの上蓋を被すと、棚から出した盆を重りとしてその上に載せる。

 湯気がぱたりと見えなくなり、信じられないような目をして少女が声を上げる。


「湯気がなくなったよ、どうして?」

「蓋をしたからだよ」

「上に置いたその丸い板のこと?」


 カップ麺の縁を覆い被す盆を指さす。


「蓋代わりだな。この蓋をしたまま三分ぐらい待つんだ」

「待ったら、どうなるの?」

「即席ラーメンが出来てる」


 常識的事実をさもありなんと答えると、何故か少女の表情に困惑が浮かぶ。


「ラーメンって何?」


 別の時代から来たタイムトラベラーと会話しているみたいだ、と矢杉は己の状況の稀有さを諧謔を込めて比喩した。

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凡庸大学生と野生児研究 青キング(Aoking) @112428

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