第4話 研究体の告白

 橋口と論戦した日から一週間が過ぎて、矢杉が地下室に赴く毎に野生児の生気が失われているのを、疑問に思いながら型どおりの知能教育を受けさせていた。

 知能教育の前後に体調や心理状態を尋ねるのだが、鬱に沈んだように固く口を閉ざして明かさない。

 矢杉には彼女の沈鬱で暗い顔が気掛かりで、研究にも身が入らない。

 沈鬱の原因を判明させようと頭の中で彼女の言動を思い返しながら、夜の研究棟に向かう並木道を歩いていた。

 この日矢杉は、橋口から急遽今日の研究の代行を要請され、それを引き受けたのだ。

 研究棟の地下室へ入ると、中央の檻の中の少女と視線がかち合った。

 少女は救われたように瞳を見開いていた。準備していた台詞が口を衝く。


「私を逃がして!」


 少女の言葉の意味をすぐに理解できず、遅れて今度は矢杉が瞳を見開く番だった。


「今、なんて言った? もう一回言ってくれ」


 聞き取れてはいたが、確信を得るために言葉の反復を頼んだ。


「私を逃がして」

「何があったんだ。事情を説明できるか?」


 視線を合わせたまま少女に近づいて訊いた。

 少女は檻の格子越しに頷き、野生児には見受けられないであろう理知的な目をして話した。


「一週間前にあなたとあの橋口っていう人が言い合ってたでしょ、部分的にしか記憶が無かったんだけど、その時にすべての記憶が元に戻ったの。自分が何者なのか、今までどうやって生きてきたのか、どうして野生児として扱われることになったのかも思い出したわ。

 私は親から捨てられた子供だったのよ。でも七歳年上の兄がいたわ、その兄と確かな年数はわからないけど、二年くらい山籠もりしてたの。だから学校には行ってないわ。けれど兄が私に学校以上の教育をしてくれたわ。その兄が突然山の中で姿を消したの、三日ぐらい兄を探して、川縁で兄が死体を見つけたの。頭に弾痕があったから、多分動物に間違われて猟銃で撃ち殺されたんだと思う。その後の記憶がなくて、気が付いたらここにいたの」


 矢杉は少女から顔を逸らして、打ち明け話を受け止める心にゆとりを作るために、長く深く絞り出すように息を吐いた。吐き切ってから少女の方に顔を戻す。


「兄の死体を見た時に記憶を喪失したのか?」

「おそらく。その先の記憶が全く無いから」


 無念そうに少女は答えた。


「とはいえ、自分の素性とかの記憶は回復したんだな?」

「うん。だから私はここから出たいの。野生児として扱われるのはもう嫌よ。だって……」


 少女は続く言葉に詰まった。

 だってなんだ? 、と優しく促す口調で矢杉が問い返す。

 しばしの無言の時間を経て、少女が吐露した。


「あのオヤジに、いろんな酷いことを、させられたの。だから早く私を解放して……お願い」


 切実に懇願する。

 矢杉は少女の顔を見つめながら勘案した。記憶が戻ったのを理由にして、彼女の頼み通りに逃がしてやるべきだろうか。今の彼女の記憶ではここは見知らぬ街であるだろうし、橋本が逃亡に気が付いて捜索網を張るかも知れない。彼女はその捜索網に掛かれば、また野生児として研究漬けにされるか、もしくはさらに酷い扱いを受けるかもしれない――彼女を逃がすのは危険すぎる。


「ダメだ、逃がせない」


 矢杉は淡々と、だが短く告げた。


「なんで、あなたに迷惑はかけない。万一ここに連れ戻されても、あなたが逃がしたって言わないから……」

「逃がすだけでは不安だ。お前が捕まらないよう、俺は責任持って手助けする」

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