第3話 研究者間の差異

 後日、矢杉は当番の日程通りに研究棟に訪れた。

 すでに並木の葉叢は銀杏色に染まり始めており、秋の到来は間近に迫っていた。

 幼少期から家族は祖父母だけで、現在は一人暮らしで姉弟のいない矢杉にとって、研究のために連れてこられた野生児と扱われる少女は、彼の中で妹のような存在に変わっていた。

 少女の知能が発達していくごとに、矢杉の感情は庇護の心を置き所にして、確かな形を持っていた。

 それもそのはず、少女は矢杉から見て、人間性のほとんどを取り戻していたのだ。

 研究終了後の少女の処遇に憂慮を向けてながら、少女の軟禁されている研究棟の地下に降りた。


「矢杉君、待っておったぞ」


 眉根をしかめた橋口と居合わせた。

 矢杉が研究当番の日は棟を留守にしている橋口が、何故か軟禁室にいた。

 少女の身体に異変でも起きたのだろうかと、矢杉は途端に心配になる。


「橋口先生、彼女に何か?」

「この野生児、本当に野生児なのかね?」


 少女が入っている鉄檻を指さして、若干の怒りを籠めた声で問い返してきた。


「どういう意味です?」

「わしと矢杉君に対する、言動が大きく違う。この野生児は差別している」


 矢杉は橋口の言葉の納得に苦しみ、鉄檻の中の少女に解を見出そうと目を移した。

 少女は足を投げ出した格好で、檻の床にへたり込んでいる。両手で顔を覆いあたかも矢杉と橋口の視線を拒否しているようだ。


「どうだね。このようにわしがこの部屋にいると、一言も発さない。しかし矢杉君が研究当番の時は、いかにも楽しい雰囲気で質問に答えてくれるそうではないか」

「いかにも楽しいって、そんなことはないと思いますよ。でも俺の方が彼女に優しくしてるから、彼女側で好き嫌いが生じたんですよ、きっと」

「好き嫌いかの。野生児が自分の感情を区別出来ていると。なるほど意思表示は知能発達の分析の好適な指標じゃないかね」

「そうなんですか?」

「考えてみたまえ。好悪の意思表示は人間以外の動物でも可能だし、人間でも生まれて間もない頃からやっている行為だ。嫌な時は泣き、好ましい時は笑う」

「言われてみれば、赤ちゃんでも泣いたり笑ったりして、母親へ自分の感情を伝えてますね」


 矢杉が事例に思い当たるのを見て、ニヤリと橋口は口の端を吊り上げる。


「そしてね、矢杉くん。知能発達によって人間だけで得られる意志表示がある、どういったものか分かるかね?」


 急な質問に矢杉は頭を捻る。


「なんでしょう――言葉ですか?」

「うむ、そうじゃな。人間以外の生物が用いないものじゃな。人間だけは言葉を操り、感情を欺瞞できる」

「人間って狡知な生き物ですね。かくいう俺も人間なんですけど」

「それだけ人間の知能が優れている証でもある。そうなるとじゃな、野生児も感情を偽っているのではないか、という仮説をわしを今立てたのだ」

「今ですか?」

「そう、今じゃ」


 橋口は誇らしそうに頷いた。


「そこで今日の研究は矢杉君、わしと二人で行うことにした」

「え、二人でして、何か変わるんですか?」

「わしの研究と矢杉君から聞かされた研究報告の真逆と言っていい違いは何故なのか。その疑問点を解き明かすつもりじゃ」


 報告に偽りなどないのに面倒なことになったな、と矢杉は嘆息したい気分だ。

 矢杉の心情など意にも介さず、橋口は決まった手順の教育法を開始する。

 野生児は檻から出し、矢杉を彼女の眼前に押し遣る。


「これは誰じゃ?」


 野生児は小さく口を開――きかけたが、急に噤んだ。


「どうしたのじゃ、お前の大好きな『ニイ』じゃぞ?」

「ニイ……」


 呼ぶのを躊躇った末のような、力ない声で言った。


「そうじや、『ニイ』じゃな。それではわしは?」


 自身を指さして、傲然と橋口は野生児に問うた。

 野生児は黙す。


「またじゃ、わしになると黙り込む。唖を演じるのはやめんか」


 怒鳴り声になる寸前の口調で、橋口は野生児に詰る。

 しかし野生児は一語も発さない。

 存在を軽視されていると思ったのか、橋口がこめかみに血管を浮き上がらせる。次の瞬間片腕を伸ばして、野生児の両頬を強く掴んだ。

 頬に爪が食い込み野生児は涙目になり、掴む手から逃れようと細い体をよじらせた。


「おい、離せよ」


 矢杉は急激に怒りが沸点に達し、野生児に伸びている橋本の腕を横方向に引っ張った。野生児の頬の上を滑るようにして指が外れる。


「なんだ、矢杉君?」


 文句でもあるのか、と凄味のある目で矢杉に振り向いた。


「痛がってるじゃねーか。拷問でもする気なのか」

「拷問? わしが研究体にそんな残忍なことをするわけがない。野生児の本性を暴き出そうと少々手荒いことをしただけだ」

「そういう乱暴なことをするから、彼女に嫌われるんですよ。野生児と言ったって、人間なんです。彼女の好き嫌いにあなたが腹を立てるのはおかしいですよ」

「そこまで言うのならば、矢杉君といる時だけ野生児の知能が一段と高い理由を証明できるのかね?」

「それは俺の方が彼女に気に入られてるからです」


 矢杉はきっぱりと断言した。根拠も論理もないが、そう考えるのが当然だと思った。


「気に入られているというだけで、ここまで急激に知能が向上するとは思えん。連れてきた当初は、どこにも人間的な行動が見られなかった。二か月で嘘を吐けるようになるはずがない……」


 天啓が降ってきたように、橋口は目を見開いて言葉を切った。鼻から笑いを漏らす。


「そうか。わしは勘違いしとった」

「勘違い?」


 訊き返す矢杉に、出来損ないの弟子を見るような失望と軽蔑の視線を向けた。


「野生児に情が移って、人間性を獲得したと嘘の報告をして、早期に解放させようという魂胆じゃろ」

「俺は嘘の報告をした覚えはない。全て俺の見たままを伝えた」

「口ではどうとでも否定できる」

「報告を信用しないなら、そもそもなんで俺を研究に参加させたんだよ?」

「研究結果に恣意的な作為をしないよう相互監視のためでもあり、少しでも主観を減らすためじゃ」

「主観を減らすためというなら、俺の報告があなたの主観を無くすのに役立つはずでしょう?」

「わしは信じられないのだ、九牛の一毛に過ぎない大学生一人の研究報告など」

「自分から研究の手伝いを頼んでおいて、その言い草かよ。報告を信じないなら、俺なんていようといまいと結果は変わらねえじゃねえか」


 互いに頭に血を上らせて、大声で相手を怒鳴る。

 言い返す前の短い合間にいや、と外側の破れた鈴が鳴るような怯えた声が、小さく聞こえた。

 弾かれたように矢杉と橋本口は、野生児に驚嘆の目を注いだ。

 男二人に同時に振り向かれて、野生児は叱られたように畏縮した。


「今、なんと言ったんじゃ?」


 爛々とした目つきで橋口が野生児ににじり寄る。

 悪い敵の手から逃れるのに似た強張った表情で、野生児が後退った。


「逃げるな、不具が」 


 野生児の動きが癇に障わって、橋口はあからさまに罵った。

 矢杉が野生児を庇う形で、橋口の眼前に躍り出る。


「何故この子に手を出したがるんだ。この子は研究体である前に立派な俺達と同じ人間だ。俺達人間と同じ様々な感情を持っているし、同じ動きをするし、同じ言葉を使う。あんたが研究体だと思ってるのは紛れもない人間だ」


 激情に任せて言葉が飛び出たが、矢杉に引き下がる気はなかった。

 腹立ちまぎれの反論が返ってくるかと思いきや、橋口の余裕を湛えた薄ら笑いに出会う。


「人間である後には研究体じゃ。研究のために居場所をもらっている他生物と同じ研究体じゃよ。わし達とは違う特殊な環境下で発見され、人間とは違う動作を時折見せ、人間とは違う意思の疎通法を身に付けている。矢杉君が人間だと思っているのは、紛れもない野生児だ。既知された人間とは明確に違うのじゃ」


 詭弁だ、と矢杉は心の中で吐き捨てた。が、完全に橋口の論説を否定できない研究者的自分がいることが悔しかった。連れてきた当初は人間としては異常な行動や反応が、見られたことは確かなのだ。

 矢杉が反駁できないで焦れているのには気付いてか否か、橋口は論説の結びを言う。


「わしも研究体が人間だとして認めている。ただ人間として特殊だからこそ研究に付されているのだよ」


 人間として認めている、その事実を突きつけられては自分の論説の立場がないと、矢杉は己の思慮の浅はかさが身に苦く染み込んだ。

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