第2話 研究開始
橋口教授と日毎に交替して、野生児の研究開始から二週間が経過した。
野生児にわずかな進歩が顕れた。
矢杉は橋口教授に指示されていた知能教育を、手順に沿って行っていた。
あいうえおの平仮名が色を変えてプリントされた五枚のカードがあり、発問の答えに合うように野生児が五枚のカードを並べる、といった方法だ。
例えば、「あお」という問いに対して、「あお」を構築できる二枚のカードを抜き出して並べられれば成功である。
この教育法を始めて一週間は、発問者が答え通り並べてみせても、野生児は関心ない様子であった。
しかし教育法を始めて二週間のこの日、答えを出すとまではいかないが、カードを弄るようになった。
矢杉はその結果をメモして、橋本に報告した。
「ほう、カードに興味を持つようになったか」
「そうみたいで、後は文字を並べられるかですね」
「このまま続けていこう」
ファイブカードと称したこの教育方法を続行することになった。
それから八日後、野生児はさらに進歩を示した。
矢杉の問いに反応して、ゆっくりながら答えと同じ文字にカードを並べたのだ。
始めた頃では考えられぬ野生児の快挙に、矢杉は半ば興奮気味で橋口に報告した。
「ついに正確に答えましたよ」
「ほう、ファイブカードの効果が顕れたか」
「はい。ファイブカードを続けますか?」
「ふむ。こんな早く成果が出るとは思わなかったのでな。次の訓練を考えていなかった。次の時には考えておくよ」
橋口が考案した新しい知能教育を、野生児に実施し始めて一週間が経った。
新しい知能教育は、発問者が数字を音に出して発声し、野生児が数字を音で識別し、十個の碁石を数通りの個数に並べる訓練だ。
そうした教育の成果か、野生児に奇妙な行動をとるようになった。
矢杉がサンと発音しても、野生児はただニイ、ニイと消え入りそうな声で重複して言うのだ。
その行動について矢杉は報告した。
「うん? わしの時にはそんな声出さないぞ」
橋口は不可解そうに眉根を寄せた。
「それじゃ、どうして俺の時だけ『ニイ』と発声するんですか? 一体、彼女は今どういう状態なんですか?」
「断言はできんが、芽生え期と考えることが出来るの」
「芽生え期とは?」
「対象は認識・分別されとらんが発音だけをまねる時期のことじゃ。とはいえ『ニイ』とは何を指している言葉なのかの?」
「専門家のあなたが判断できないものを、俺がわかるわけないですよ」
「うーむ。今は野生児の発達を辛抱強く待つしかないの。いずれ分析が可能になるだろう」
研究はいつまで続くのか、大学生活が研究で潰されるかもしれないと矢杉は嘆息した。
長丁場を覚悟した矢杉の予想に反して、野生児の発達は二週間僅かで行動に顕れた。
矢杉が野生児の前で碁石を床に並べ始めた時のことだ。
不意に野生児が『ニイ』と発音した。
まだ発問をしていない矢杉は、突然の声にびっくりして碁石から野生児に目を移した。
野生児は矢杉と目を合わすと、おもむろに右腕を上げて、人差し指を真っすぐ矢杉の顔に向けた。
野生児の奇異な動作を、矢杉は十数秒顔を合わせた後に遅れて知覚し仰天した。
「ニイ」
たまげている矢杉の顔を指さしたまま、野生児はもう一度発声した。
「『ニイ』って俺の事か?」
驚きのあまり思わず野生児に問いかけた。
無論、野生児ははっきりした返事をせず、首肯もせず、『ニイ』と言って矢杉に指を向け続けるだけだ。
矢杉はどういう行動をしてやればコミュニケーションを交わせるだろうか、としばし首を捻った。挙句、自分自身を指さして質問した。
「ニイ?」
「ニイ、ニイ」
「ヨン?」
そう訊くと、野生児は声のトーンを著しく高くする。
「ニイ、ニイ」
「ゴ?」
「ニイ、ニイ」
やっぱり俺の事か、と矢杉はひとまず納得した。
しかし、何故俺が『ニイ』なんだ、という新たな疑問も生まれたが。
矢杉は橋本に、『ニイ』の示す対象が自分であることを伝えた。
橋口は前回よりも益々不可解そうに眉をしかめた。
「何故、矢杉君が『ニイ』なのかね?」
「ほんと、何故なんでしょう。彼女がまだ人語を解さないから、理由を訊き様がないんですよ」
「わしも野生児の本実験は初めてじゃから手探り状態で、研究を進めてるんじゃ。故にわしも経験から判断することが出来ないのだ」
「研究を進めていくしかない、ということですか?」
「うむ。そういうことじゃ」
橋口の自信のない頷きに、矢杉は研究の失敗の可能性を見て取った。
野生児の奇妙な行動が目立ち始めてから、彼女に急激な知能の成長が見られた。
野生児が矢杉を『ニイ』と呼び出して二週間すると、初めはあいうえおの五文字を並べることもできなかったのが、ここ数日で五十音全てを視覚、聴覚で認識できるになった。さらには数字に関しても、九個の碁石を並べるどころか、一桁の加算減算ならば訳もなく解けるようになっていた。
他にも以前とは著しい変化があった。
「俺はなんだ?」
「ニイ」
言葉を理解するようになり、格段にコミュニケーションが容易になった。
「俺の名前はなんだ?」
野生児は首を傾げた。
傍目には野生児が矢杉の質問の意味がわかっていないようにも見えるが、実は『ニイ』は野生児なりの矢杉の呼称で、矢杉に名前があることを知覚している証左でもある。
「これはなんだ?」
矢杉は手元のリンゴを野生児の顔に近づける。
「リンゴ……」
野生児は即座に答えた。
「これはなんだ?」
リンゴを箱に戻して、次にリンゴと似通った赤いゴムゴールを掲げる。
「ボール……」
これもまた考える間もなく答えた。
「それじゃ、これとこれとどちらが食べられる?」
箱からリンゴを取り出し、左右の手に分かれてリンゴとボールを持って問うた。
「こっち……」
野生児は明確にリンゴを指さす。
矢杉は自分の娘が難しい問題を解いたかのように、我知らず顔に喜色を滲ませた。
「今日も正解だ。偉いぞ」
野生児の頭を撫で彼女の手にリンゴを持たせる。
矢杉の指が手の甲に触れた瞬間、野生児が顔を引き攣らせた。赤く丸々としたリンゴを取り落とす。
「どうした?」
矢杉は反射的に手を離して尋ねる。
だが野生児は矢杉がリンゴを握らせようとした手を浮かせたまま、泣きそうに顔を引き攣らせたままだ。
野生児の意思表示がまだ不全であることを思い出し、野生児が浮かせている手を慎重に掴んで甲の方に裏返した。
火傷だと思われる症状で、皮膚が腫れあがっていた。
「何があった?」
矢杉の逼迫した声の問い掛けに、野生児は沈黙した。野生児の現在の言語能力では言い表せない何かが起きらしい。
教授に訊いてみるか、と矢杉は自分が不在の時間の野生児を把握している橋口に、手の甲の腫れに関して、報告のついでに尋ねることにした。
「橋口先生、一つ質問が」
本日の野生児の学習結果を型どおり終わらせ、矢杉は切り出した。
「彼女の右手の甲が腫れてたましたけど、何かあったんですか?」
「右手の甲。あれだな」
橋口には思い当たる記憶があるらしい。
「昨日、野生児の温度への反応を調べるを実験を行ったんじゃ」
「どういった実験だったんです?」
「簡単じゃよ。野生児に百度近くの熱湯を触らせたんじゃ」
「火傷して当然だ。他に方法はなかったんですか?」
苛立ちを露に橋口に詰め寄った。
橋口はいたって無関心な顔で言葉を返す。
「人間としての反射能力が残っているか、確かめるための実験だ。研究対象に苦痛を与えてしまうのは、致し方ないことじゃ」
「可哀そうだとは思わないんですか?」
「研究に私情を交えてはならん。結果に狂いが出てしまう」
橋口の厳かな声に、矢杉は気圧され返す言葉を失くした。目の前の老人が研究者であることを改めて認識する。
「失礼しました」
橋口の一本気な非情さを疎ましく思いながら、研究棟を後にした。
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