凡庸大学生と野生児研究
青キング(Aoking)
第1話 アヴェロンの野生児
大学キャンパスの銀杏並木が、夏の暑さの中で涼風になびかれている。
矢杉八太郎は深夜の銀杏並木の葉陰の道を、研究棟へと歩いていた。
「こんな夜中に、何用だよ」
彼はこの大学の生徒であり、突出した才能のない平凡な学生だ。専攻するのは発達心理学という、子どもの成長や行動に伴う身体的精神的な変化を研究する学問である。
矢杉は別に好き好んでこんなマイナーな学問を専攻しているわけではない。彼が入学した頃、専攻する学科を決める必要があり、そこで心理学の道に進んだのだが、もともと心理学など強く興味を持っていなかったので成績も芳しくなく、唯一人員の不足していて生徒を募集していた発達心理学を気乗りせずとも専攻することにした。
子ども好きでない矢杉にとっては、けっして楽しい学問ではない。それでも大学卒業のために、単位取得のため講義を受けている。
研究棟の前まで来ると一階の隅、発達心理学の専門教授橋口寿美男が普段研究に使っている部屋だけが、煌々と照明の光を外に漏らしていた。
矢杉は研究棟に入り、橋口の研究室に向かった。研究室のドアの前で、室内の人に声をかける。
「橋口先生、俺です」
「おお、矢杉君か。入ってくれ」
入室を許可された矢杉がドアを開けると、冷房の利いた室内で、橋口教授は書類が散らばっているデスクに肘をつけてタブレット端末を持ち、熱心な目で眺めている。
矢杉が近づくと、タブレットを机上に置いて椅子から立ち上がった。ちらと見えたタブレットの画面には、一糸まとわぬ裸身の美少女がベッドに座っている映像が停止されて映っていた。
「矢杉君、君に頼みがあって来てもらった」
「それより先生、タブレットで何をしていたんですか? また研究ですか?」
冷めた態度で教授に嫌味っぽく尋ねた。
教授は一瞬目を見開き、タブレットに目線を向ける。慌ててタブレットの電源を切ると、しばらく言い訳を探すように黙した。
「先生、どうなんです?」
取り調べする警官に似た口調で尋問する。
教授は開き直った顔で言い放つ。
「ああ、研究だよ。発達心理学者なら幼女が好きでも問題ないのだ」
「つまりロリコン、だと言うことですね?」
「あんな低劣な輩と、わしを一緒くたにせんでくれ。わしのは子どもの発達の真理を追究するための健全な観察だよ」
矢杉は哀れむ目をして、嘆息した。
「まあ、そういうことにしておきましょう。先生の屁理屈はさておいて、どういった用件で俺を呼んだんです?」
「ようやく本題に入ったの。どういった用件かって? それは矢杉君、見てからのお楽しみだよ」
「こっちは寝ているところを携帯のバイブレーションで起こされて、わざわざ来たんですよ。焦らさないで教えてくれ」
矢杉が露骨に不機嫌な顔をしてみせると、顎に手を当て考え始めた。
やがて手を顎から離すと、教授は言った。
「矢杉君、鉄分足りてる?」
「足りてるわ。体内から溢れ出すくらい摂取してるわ」
「そうか、ならばそんなに怒るな」
人をおちょくる口ぶりで宥めた。
飄々としたロリコン教授に悪態をついても内省もしないことは知っていたので、矢杉は苛立ちを静めて話の軌道を戻す。
「呼び出しておいて何の用か教えてくれないのなら、もう帰りますよ」
「教える、教える」
矢杉に落ち着くように手でジェスチャーしながら、教授は折れた。
「とはいえ話すより実際に見てもらった方が早い。ついてきてくれ」
そう言って教授は歩き出し、研究室の一隅に設えられた書類棚の前に立つ。
「不正資料でも見せてくれるんですか?」
矢杉は皮肉げに訊ねた。
「わしは不正など命がかかってもせんわい」
矢杉の方を見もせずに言い返した。立ち位置を気にしながら棚の横に移動する。
ここだな、と一人で頷き、棚を手で押し始めた。
少しづつ棚がズレて、研究室のリノリウムとは違う材質の床が現れる。床は薄い木製の一枚板をはめ込んだ造りになっている。
棚を部屋の角に完全に押しやると、一仕事終えたみたいに教授は腰を伸ばした。
「六十超えた老体には堪えるの」
「この床はなんです?」
「この床かの。この床の先には地下室があるんじゃ、その扉じゃ」
「扉というには、ノブがありませんが」
「細かいことは気にせんでええ。とにかく地下室があるんじゃ」
隠された地下室への入り口なんてマンガじゃあるまいし、と矢杉は呆れた。
教授ははめこまれた板の手をかけるためであろう窪みに手を入れて、上へ持ち上げた。板の床は開いて、矢杉は内部を覗く。内部は先に何も見えぬ暗闇、ではなく片手で指折り数えられる段数の梯子が下まで降りているだけであった。
「いくぞい」
ほんとにマンガみたいな地下室への入り口に呆気に取られていた矢杉に構わず、教授は梯子を降りた。矢杉も続いて降りる。
降りてすぐに教授はコンクリートの横壁に設えたドアを、肩で押し開き中に入った。ドアの前で逡巡する。
「こっちへ来たまえ、いい物を見せてあげよう」
にやりと笑って矢杉を手招きする。
罠があるわけではないと思い切り、矢杉は手招きに従って足を踏み入れる。
「これが何かわかるかね?」
教授は床に置かれた四角い黒風呂敷に包まれた物を、指さして問いかけた。
「さあ?」
人目を避けるように覆いがしてあって、見当のつけようもない。
さすがにこれではわからんか、と言って、覆いの黒風呂敷を捲り取った。
矢杉は衝撃的なものを見る。
「人間、じゃないですか……」
風呂敷をとられた四角い物の正体は格子の太い鉄檻であり、檻の中にはいろんな汚れ染みにまみれた粗末なTシャツを着た五、六歳の幼い少女が、頭を項垂れさせ足を放りだして、力なく床に直で座っていた。
呆然と開いた口が塞がらない矢杉に、教授は言った。
「その辺にいる子どもではない」
「子どもを監禁なんて、人倫に反してますよ。いくら発達心理学の学者だからって、なんでも……」
「勘違いするな、矢杉君」
抗議の態勢に出ようとしていた矢杉を、教授は重々しい声で遮る。
普段はおちゃらける教授とは正反対の厳かな声に、矢杉は気圧された。
「今檻の中に閉じ込めている少女は、人心など持っておらんよ」
「どういうことです?」
「本来人間が獲得している言語能力や認知能力、ましてや手足の使い方まで欠落しておるのだ。つまりは野生児じゃよ。矢杉君は野生児と聞いて、何を思いうかべる?」
教授の質問に、矢杉は頭を横に振る。
「何も思い浮かびません。すみません、浅学で」
知識の浅さを詫びた矢杉に、橋口教授は優しい顔になる。
「わからんのなら、教えてあげよう」
「ありがとうございます」
「野生児といえば、十八世紀末か十九世紀初頭頃のフランスで発見された少年が有名じゃ。その野生児は捕獲される以前から森で数回ほど発見されており、民家に侵入したところを捕獲された。この野生児に当時の医者は発達障碍児と診断したが、ジャン・イタールという学者はその診断に納得いかずに、ヴィクトールと名付けて人間らしさを身に着けさせる発達教育を施すんじゃ。教育していた場所がフランスのアベロンだったために世間的には『アヴェロンの野生児』として言い伝わっている」
長広舌を言い終え、教授は一息吐いた。
縷々とした講釈を聞き、矢杉はヴィクトールがその後どうなったのか気になって尋ねる。
「その野生児は、教育を受けてどうなったんです?」
君の想像にはそわないと言うように、教授は首を振った。
「残念だが、社会に出られるほどの知性の回復はしなかったようだよ。そもそも教育を始めたのが十一、二歳頃だということだからね、言語発達には手遅れだよ。それでもアルファベットの順番や、数語の語彙は理解できるようになったそうじゃが、それは言語発達というより後学による成果だとわしは思うね」
滔々と語る教授を見ていても、矢杉には『アヴェロンの野生児』という遠い国の遠い過去の出来事を信じ難かった。
彼の判断に困っている顔を見て、教授は不満げに言う。
「矢杉君、この話を信じていないだろう?」
「いえ、信じていないというわけじゃありませんよ。ただ確証のない話だから、簡単に信じられないんです」
「確証がないと言われれば分が悪いが、今より教育環境が整っていない時代のことであるから、十分にあり得る話じゃ」
「確かにあり得る話ですけど」
「まあ、君が話を信じるか信じないかは、今回の要件には直接関係しないんだがな」
信じさせるのを億劫に思ったか、教授は話題を換えるようにそう告げた。
「用件?」
「そう用件」
「俺にこの子を見させるのが、用件じゃないんですか?」
「それで終わりじゃないんだ」
教授は鉄檻の上に手を載せて、真っすぐに矢杉を見つめる。
「矢杉君に研究を手伝ってもらいたい」
「具体的に何をすれば?」
「私と一日交替で彼女の観察と教育をしてもらいたい。出席できない講義は、わしが講師に便宜を図っておこう」
「そういうことなら、わかりました」
かくして矢杉八太郎の野生児研究の日々が始まった。
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