ラストラン

あお

ラストラン

単語帳を開いて脳に一つもインプットされないまま三十分はたっただろうか。周りの高校三年生は今この瞬間も大学受験へ向けて必死に勉強しているはずだ。けれども焦る気持ちすら湧いてこない。

三ヶ月前の四月、『感染拡大防止のため地区大会及び県大会は実施できません。』という顧問からのメールによって中学から6年間続いた俺の陸上生活が終わった。あまりにも突然すぎてなんだか信じられないまま休校が明けて、引退の挨拶をして、ぼーっと過ごしていたらあっという間に夏休み。本当にこれでおしまいなんだろうか。やり切ったという気持ちにもならず次は受験へ向けて勉強に精を出そうというやる気も湧いてこない。あのメールが来た日からずっとふわふわしたまま気持ちがどこにも着地しないままなんだ。結局英単語は一つも覚えないままベッドに横になる。スマホの画面を見たら後輩のソウタから連絡が入っていることに気づいた。

『ジュン先輩1時に○○市の陸上競技場に来てください!』『あ!スパイクちゃんと持ってきてくださいね!』これは一緒に練習しようって意味なんだろうか。急な誘いにびっくりはしたけど特別予定もないし、久しぶりに走ると気分転換になるかもしれない。1時まであと1時間ちょっと、競技場までは自転車で三十分かかるからすぐ支度しよう。寝癖を洗面所で少し整え、歯を磨く。最近はほとんどパジャマになっている部活の練習着に着替えたら早めに支度が終わってしまった。久しぶりに競技場で走れると思うとなんだか興奮して落ち着かない。家の周りを軽く走ったりはしてたけどスパイクを履いて思いっきり走るのはいつぶりだろう。そうやって挙動不審にソワソワしていたら玄関のドアが開く音がした、お母さんが帰ってきたらしい。俺が珍しくどこかに出かけようとしているのに気づいたお母さんが不審な顔をした。

「ジュンどこかいくの?」

なるべく相手の顔を見ないでへんな方向を向いたまま、後輩に誘われて競技場に行ってくると答える。

「勉強は大丈夫なの?行きたい大学だって決まってないんでしょ。もう部活も終わったんだから、真剣にならないと、どこも受からないわよ。」

今そんな話は聞きたくない、だいたい終わったなんて軽々しく言うなよ、あんな終わり方で最後なわけない、まだ俺は認めてないんだ。言いたいことは山ほどあったけど相手に何も言われたくないから無視して早歩きで玄関へ向かう。早くこの冷房の効いた冷たい部屋から出て行きたい今は暑くて何も考えられないくらいがちょうどいいんだ。俺は掛けてあるスパイクが入ったシューズ袋を乱暴に取って、ランニングシューズのかかとを潰したまま慌てて家を出る。久しぶりに直に浴びた日光に一瞬視界が狭くなる、まだ夏が始まったばかりだと思っていたのに、いつこんな猛暑になっていたのだろう。ランニングシューズをきちんと履き直していたら前髪をつたって汗が地面に落ちる。自転車を漕ぎながら若干感じる生温い風が余計にこの暑さに加勢している気がする。競技場に着く頃には想像以上の暑さとここまで自転車を漕いだ疲れでお母さんとのことなど忘れていた。駐輪場に自転車を止めて、タオルで汗を拭きながら入り口まで歩いていると部活が終わったらしい中高生がちらほら見える。自分はまだその中の一人にみえるんだろうか、いやみえるにきまってるか、部活を引退したかしてないかなんて周りから見たらわからないだろう。そうやって周りの人を見ていたら入り口のそばに見知ったやつを見つける。

「ソウタ!久しぶり!」

真剣にスマホでゲームをしていて気づいていないソウタに向かいおれは大声で話しかける、驚いて画面から離した顔は前見たよりも焼けていた。

「あっ!久しぶりっす!すいません急に呼び出して。」

「いいよ別に、俺も暇だったし。でもめっちゃ突然だよななんかあったのか?」

「いや横野先生がよくジュンは大丈夫そうかって聞いてくるんで俺も気になっちゃって」

なるほど。顧問の横野先生はこんな引退になった俺たち三年生に何度も何度も頭を下げて謝っていた。

たぶんまだ納得してない俺のことをずっと心配していたんだろう。でも横野先生が悪いわけではないし具体的に誰かが悪いわけでもない。そうやってどこにも気持ちをぶつけられないから俺はくすぶっているのかもしれない。ソウタに心配かけてごめんな先生にも大丈夫だって言っといてくれ、となるべく不安をかけないように返事する。なか入りましょうかと進んでいくソウタに続いて俺も競技場へと入っていく。場内は観客席で囲まれているから熱がこもっていて外よりももっと暑い。大会だとこの観客席がいろんな色のジャージで埋まって各校必死で応援するから熱気がすごいことになるんだよな。でもそんな中走るのが一番気持ちいいんだ。やっぱりまだそんな未練たらたらなことを考えてしまう。さっきは大丈夫と言ったがこんな光景見たらより悔しい思いになる。バックストレート側の観客席に荷物を置いて軽く一周ジョギングをして準備運動を終える。それだけでも汗をかいてしまう。去年はここまで暑かっただろうか、ソウタのほうを見てみると汗はかいているが何だか俺より平気そうだ。走りの動きづくりのため小さいハードルを使いもも上げやジャンプをする。部活に入った当初はよくハードルを倒していたが今は難なくこなせるようになっていた。しかし久々だからだろうか今日はつま先にハードルをひっかけて何本か倒してしまった。心とは別に体は陸上から離れているようで少し寂しく感じる。

「今日人多くないか?」

ハードルを片付けながら尋ねる。思ったよりも競技場内に人が多くいる気がした。

「夏休み明けたらすぐ新人戦ですからね。みんな必死に練習しますよ。」

新人戦には俺は出れない。ソウタも部活ももう次に向かって進んでいるんだ。まだどこにも進んでいない俺はソウタみたいな後輩から、横野先生から、どう思われてるんだろう。こんなに暑いのに頭はゾッと寒くなるような、周りからの俺への評価を思い浮かべてしまう。

「先輩アップ終わったんでスパイクはいて、流し行きませんか。」

そんな事を考えてる俺のことを暑さで頭がぼーっとしてきたようにでも見えたんだろう、ソウタに声をかけられた。俺たちは荷物のある場所に戻って靴をスパイクに履き替える。青とオレンジの派手なアシックスのスパイクに久しぶりに足を入れる。どうしても中学から履いている汚れた白のスパイクから買い換えたくて、短期バイトをして自分で買った思い出のあるものだ。もう履くのは今日で最後かもしれない。ふと、そう思ってしまう自分がいた。

「ソウタ履けたか?俺も履いたから行くか。」

本格的にダッシュをする前に行う流しというのはフォームの確認や体に刺激を入れることが目的で100メートルを6割くらいのスピードで走るのが正解らしい。でも俺はいつもうまく調節できずに8割くらいになってしまう。走り初めは6割をイメージしていた、けどスピードに乗ってくるとそんなことは頭から消える。いい追い風が吹いて背中を押してくる。タンタンタンタンと気持ちの良いリズムで足音を鳴らしていくとあっという間にゴールしてしまう。ほぼ全力だったので少し息苦しい。でも不快な感じじゃなくてそれも含めて気持ちがよかった。後からスタートしたソウタも走り終えたらしい。

「この後、せっかくなんで100メートルのタイムとってみません?」

手動なんで正確なタイム出ませんけど、とソウタが尋ねてくる。 

「あーじゃあ頼む。」

そう言うとソウタは100メートルのゴールラインへ、俺はスタートラインへ向かう。置いてあるスタブロを合わせなくては、利き足の右が2.5歩左が2歩。こういうことって久しぶりでも忘れないんだな。近くにいる中学生にスタートの合図を出してもらうように頼む。ソウタに向けてスタートするぞ、と大きく手を振ると気づいた相手から振り返される。中学生にじゃあお願いしますと軽く会釈する。オンユアマークの合図で手をスタートの白線ギリギリに置きスタブロに足を置いて右膝をつけて待つ。太陽の光を十分に集めたタータンからは陽炎が見える。そんな鉄板のような場所に置いている右膝と両手がヒリヒリしてきた。

「セット」

右膝をタータンから離して肩に体重を乗せる。目線は一歩先を見つめたまま。

「パン!」

手を叩くスタートの音が聞こえた瞬間スタブロを思い切り蹴る。

何にも考えられずにただまっすぐゴールよりも先を見て必死に腕を振った。周りの音なんか聞こえずただ自分の足音だけが耳に入ってくる。ゴール直前になって気づく。あぁ終わってしまう。それでもスピードは緩めずゴールラインを全力で走り抜ける。だんだんと減速していって立ち止まる。こんな引退なんて理不尽で、悔しくて、認めたくなくてずっと目をそらしてた。でも周りは俺なんか置いて進んでいた。どこかで区切りをつけなきゃいけなかったんだ。最後に気持ちよく走れてよかった。ソウタが俺のもとに駆け寄ってくる。

「お疲れ様です。」

「ありがとう。」

俺はゆっくりスパイクの靴紐をほどいた。

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