3

 ドラマを途中で切って、わたしはあの子のためにシフォンケーキを作ることにした。


 七海は甘いものが好きだから、わたしは頻繁にお菓子を作るのだ。シフォンケーキにパウンドケーキ、プリンにドーナツ。どれも喜んで食べてくれる。

 お菓子を作って食べてもらうことが好きだ。特に七海は天使のような笑みを浮かべて、美味しそうに食べてくれるから。


 好きな子相手じゃなきゃ、休日にわざわざお菓子だなんて作ろうと思わないよ。


 わたしはボウルに卵白と卵黄を分けて、卵黄の入ったボウルにふるった薄力粉だとかバターや牛乳を入れて混ぜる。甘ったるい香りが鼻をくすぐった。


「ねーえ、何作ってるの?」


 ふわんとフローラルなにおいが香った、これは七海のシャンプーの匂いだ。わたしと同じシャンプーを使っているのに、七海はわたしとは違う甘いにおいがするような気がする。あくまで気がするだけだけど。


 わたしは「何だと思う?」とつまらない言葉を返す。


 七海はキッチンに立っているわたしの肩に顎を乗せて、「なんだろー、ななみわかんないなー」と猫なで声で言った。

 それだけで、たまらなくなってしまう。

 いくらずっと一緒に暮らしているといえど、近距離には弱いのだ。


「シフォンケーキを作ってるの。ほら、七海も手伝って」


 卵白の入ったボウルを指さして「これをふわふわに泡立ててね」と指示を出すと、七海は顎を肩から離して「はあい」とけだるげに答えた。なんだかんだ、七海は素直だ。


 彼女はわたしの隣でハンドミキサーを器用に使いながら、卵白を泡立てる。

 ぎゅいいいいん、ぎゅいいいいん、と不細工な音がキッチン中に鳴り響く。


 七海は真剣なまなざしで液体から泡に変化していく卵白を見つめている。こんな目で見つめられたら、どんな気持ちになるのだろうか、なんてくだらないことを考えてみるけれど、たぶん、わたしは今みたいに誤魔化したり逃げたりするんだろうな。


 ただの日常に真剣さなんていらないのだ。真っ直ぐなまなざしなんて不要なのだ。そんな非日常が発生したら、途端にがらがらと音を立ててこの関係は終わってしまうだろう。それだけは避けたい。


「昨日さ、男の子に同棲しないかって誘われたんだよね」

「佐藤くん?」


 もう混ぜなくていい卵黄の手を止めるタイミングを失ってしまった。

 今はできるだけ彼女の目を見たくない。


「うん。そうそー。どう思う?」


 どう思う? とどうしてわたしに聞くの? と聞きたい気持ちを飲み込んで、

「どうかな。佐藤くんならいいんじゃないかな。しっかりしているし、真面目そうじゃんか」

 とそれらしき回答を七海に言う。


 けれど、彼女はそれを求めていないらしく、唸りながら首をかしげた。


 ぎゅいいいいん、ぎゅいいいいんとうるさいくらいで良かった。部屋が静かだったらと想像すると、ぞっとする。

 それくらい、わたしは嘘がへたくそなのだ。


「しっかりしていて、真面目なことがいいことなの?」

「一番大事だと思うよ。もう七海だってそろそろ結婚とか考える歳でしょ?」

「佐藤君と結婚したいわけじゃないからなー」

「じゃあ、何で付き合ってるの?」


 あ。言ってしまった。これまで聞かないようにしていた質問だったから、七海の目が座っていることを確認して後悔する。

 彼女はもこもこに泡立てた卵白の入ったボウルとハンドミキサーをわたしに渡した。


「これくらいでいいよね?」

 ハンドミキサーでメレンゲをすくいあげると角ができる。

「うん。ありがとう」


 余熱が終わったオーブンがピーピーと鳴る。むっとした熱気がキッチン中を包み込んでいる。

 わたしはメレンゲを卵黄の入ったボウルに入れて、かき混ぜた。

 その様子を隣で黙ったままの七海は俯瞰している。


「やっぱり、詩織は良い女だよ」


 ふわふわの白いメレンゲだったものが、薄黄色に混ざっていく。わたしは手を止めないままで、七海の顔を一瞥した。いつもへらへらしている彼女なのに、奇妙なほど大人しい。


 良い女だよ、その褒め言葉の意味がわからなくて、わたしも一緒に黙っていた。

 この沈黙がたまらなく嫌で、早くオーブンにすべてを投げ入れたい気持ちでいっぱいだった。

 早く、くだらないテレビ番組の録画でも見たい。そうすれば、いつものへらへらした七海に戻ってくれるような気がしたから。


 さっくりと卵白と卵黄を混ぜて、キッチンに用意しておいたシフォンケーキの型にゆっくりとふわふわの生地を流し入れる。それをとんとんと軽く打ち付けて、空気を抜くことが上手く焼くコツだ。


「ねえ、詩織はどうして誰とも付き合わないの?」


 その言葉に打ち付ける手が滑ってしまいそうになったが、冷静さを保ったまま台にシフォンケーキ型を置いた。


「だって、出会いがないからさ。相手がいなくちゃ付き合うこともできないでしょ?」

「詩織は良い女だから、出会いの場にいけばすぐに彼氏位できるよ」


 わたしは黙ったまま、ケーキ型を持ってそれを余熱したオーブンに入れた。三十五分、焼けばできあがりだ。


 キッチンで立ったままの七海は、ひどく傷ついたような顔をしてわたしのことを見ている。それを見て見ないふりをして、エプロンを脱ぐ。どうしてそんな顔をしているのか、わたしにはわからない。


「ほら、あと三十分でシフォンケーキができるよ。生クリームでも泡立てる?」

「ねえ、詩織」


 七海はわたしに迫った。そして、上目使いで胸ぐらをつかんだ。大きな目は少しだけ潤んでいて、表情はどこか悲しんでいるように見えた。わけがわからない。誰がそんな顔をさせてしまったの?


「ななみのことが邪魔になったら、いつでも追い出していいからね」


 一言だけつぶやいて、七海はわたしから離れた。「コンビニでアイスクリーム買ってこようかな。シフォンケーキに添えたら美味しいと思わない?」

 にひひ、と歯をむき出しにして、いつもの七海の人懐っこい笑顔を見せた。その表情に安堵した。さっきのらしくない顔を見ると、つい胸がざわついてしまう。


「うん。買ってきてくれたら、嬉しいよ。頼んでもいい?」

「りょーかい。アイスの種類は?」

「七海のセンスで買ってきて」

「その言い方、試されているみたいでいやだなー。詩織は抹茶アイスが好きだから、抹茶とバニラ買ってくるね」

「よくわかってるじゃん」

「同居人なんだから、当然でしょ?」


 七海はわたしの頬をぺちぺちと叩いて、「いってきます」と元気に外に飛び出していった。

 わたしは七海がいなくなって少しだけ静かになった部屋で、ふう、と一息ついた。

 オーブンの中のシフォンケーキはくるくると回りながら、むくむくと膨らみ続けている。

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わたしとあの子 橘セロリ @serori_0411

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