そうめん
ととむん・まむぬーん
そうめん
白、白、白、全てが白の白一色。聞こえてくるのは咳と喘鳴、それが止むと慌ただしい気配とともに新たなそれがまた聞こえてくる。ここは白い地獄、そして私が最期を迎えることになる場所。父と母に続いて私まで。妻にも我が子にも二度と会うことはかなわない。
できることなら、もしもこの世に神がいるのならば、せめて我が子に、我が妻に伝えておきたかった。最後に、伝えたかった……私の、意識が、ある、うちに……。
ブウウ――――ン――――ウンウン……。
薄れゆく意識の中、古びた換気扇のモーター音が子守唄となって私の視界は白一色から一転、真っ黒い闇に包まれていった。
――*――
「アタシ、そうめんって苦手なの。味は単調だし、コシもないし、もにゅもにゅしてるし、つゆは服にはねるし。そもそもアタシ、食事を冷たいもので済ませるのってどうにも許せないのよ。でももっと許せないのはひやむぎね。フルーツの缶詰なんか載ってるし。それもミカン、パイン、チェリーとかいろいろ載ってるならまだしもミカンだけだったりしたら最悪よ。それも食べてるうちにツブツブが崩れてきて混じっちゃったりしたら……ああ、考えるだけでイヤになってくるわ」
本当によく喋る。それも私がこうして素麺を茹でているその脇でこれだ。この
私がこの娘のこの部屋にやっかいになって一週間、その間、事あるごとに私は彼女の持論なるものを聞かされてきた。そのほとんどは自分語りの一方的なモノローグなのだが、とにかくこの娘には「食」に対するこだわりがあるようなのだ。しかしそれは偏食の類ではない。むしろこの娘は興味を持って何でも食べてみる部類の人間だ。だからこの娘のそれはコンセプトというか、何というかこの娘の中だけで成立しているルールというかこだわりらしきものなのだ。
ある日この娘はこうも言った。
「かた焼きそばってあるでしょ? アタシ、あれも許せないの。あれを食事として出されたら納得できないわ。だってあんなサクサクしたもの、あれはスナック菓子よ。例えば、例えばよ、フライドポテトの代わりにポテチを出されて納得できる? アタシはできないわ」
こんなときこの娘は相手に付け入るスキを与えない程にまくし立てる。こうしてポンポンと悪態が出てくる様はさながら機関砲のようだ。そしてなおも続くのだ。
「かた焼きそばってだけでも許せないのに、それに輪をかけて許せないのは、そいつにお酢をかけて食べる人。いるのよ、うちの会社にも。こうすると麺が柔らかくなるんだ、って。だったら最初からかた焼きそばなんて頼まなければいいのに。素直にあんかけ焼きそばにするべきよ」
出会って間もない私の前で言いたい放題をしているこの娘に対して辟易することもなくむしろ少しばかりの共感を覚えつつ見守っていられるのは、おそらくこの娘のどこかに自分に似た何かを感じられるからなのだろう。
さて、この娘がそんな話をまくし立てている間に素麺が茹で上がった。これを冷水で締めてから盛り付け。あとは用意しておいた我が家の秘伝なるつゆにサッと火を通せば今日のお昼が完成だ。
真夏にはまだ少し早いが、いい感じの日差しだしここは見栄えも考えてガラスの器を使うことにしよう。淡いグリーンのグラデーションがいい感じの皿に一口ずつを指でつまみ上げて盛っていく。こうした盛り付けには指を使う方がいいというのは我が母の教えだ。欲を言えば緑の葉っぱを散らして涼感を出したいところだが、今日はそこまではせずともよいだろう。
二〇二〇年、世界的かつ巨大なイベントで盛り上がるはずだったこの年がこれほどまでに沈んだ日々になるなんて、少なくともこの年の正月の時点では誰もそんなことは考えてもいなかっただろう。しかしそれはあっという間にこの国のみならず世界中を覆いつくした。
それはかつて我が一族に降りかかり、私のみならず我が父と母をもこの世から葬ったあの厄災と同じものに思えた。
スペイン風邪。現代の記録ではそう呼ばれている災禍は一九一八年から一九二〇年までの間、寄せては返す波のごとくその猛威は何度も繰り返された。そしてその脅威が終息したとき、我が一族に残されたのは我が妻とひとり息子の我が子だけだった。
そして今、私が目覚めたこの時代もまた、あれと似たウイルス禍に見舞われているとは、神様もいたずらが過ぎるのではないか?
ウイルスの蔓延、日々増え続ける感染者、その数が日に日に増えていくのはあの時と同じ。しかしその一方で発症はおろか感染しているか否かもわからないまま日々の生活を送っている人々も数多く存在していた。
自粛と日用品不足の不安に皆の気持ちは暗くなる。ならばせめて家の中だけでも明るく楽しくしようじゃないかと考えるのも無理のないことだ。やがて一部の人々は一変した生活の中にできた余暇を利用して普段よりも凝った家事や手料理を楽しむようになっていった。
そして今、私の目の前にいるこの娘だ。確かに一家言を持っているのだろうが、しかしこの娘から毎度供される料理らしきものはお世辞にも褒められたものではなかった。
これでは嫁になど、いや、時代が変われば価値観も変わる、結婚が全てではない。ならばせめて我が家の秘伝だけでもこの娘に引き継いでもらうことにしよう。そして将来、もし君に家庭ができたときには、今度は君が子と夫にこれを伝えてくれればよいのだ。
昨日の晩に仕込んでおいためんつゆを冷蔵庫から出してそれをタッパーウェアなる便利な器から小振りの雪平鍋に移す。素麺を茹でている間にそいつも弱火で十分に温めておく。そしてそれをこれまた涼し気なガラスの器に取り分ける。我が家のつゆは具だくさんなので蕎麦
薬味はおろし生姜と刻んだミョウガ。そうめんにネギは香りが強すぎるし生姜との相性を考えるとここはやはりミョウガが正解である。
さあ、できあがりだ。冷たいそうめんにほんのりと湯気が上がる温かいつゆ、これが私流なのだ。
「へぇ――なるほど、考えたわね」
彼女はつゆの器を持ち上げて、ガラスに透ける茄子と椎茸の具材を興味深げに眺めている。そしてそれをテーブルの上に戻すと小皿に用意した薬味を入れる。
「そうめんって市販のめんつゆを水で割ってとりあえずネギを入れてみました、みたいなどことなくお安いイメージしかなかったんだけど、オジサンのこれは全然違うわ、まるで別物ね」
よし、いいぞ。まずは好感触と言ったところか。
それにしてもオジサンはないだろ。君と私はおそらく十歳前後しか違わないのだから。
「このショウガがいいわね、これはいいアクセントだわ。それにミョウガも。ちょっと高級感が出るわよね」
彼女のトークがいつになく角が取れた丸い雰囲気になっている。これは彼女が上機嫌である証拠なのだ。
「あ、このナスおいしい。それにシイタケ、これもなかなか考えたわね。生じゃなくて干しシイタケを使ってるのもいい感じよ。なにより味が浸みてるし。そっか、オジサンが昨日から作ってたのは単に作り置きってわけじゃなかったのね。こうして味を馴染ませるためだったのね。いいじゃない、なかなかやるじゃない」
ついさっきまで私の隣でそうめんを散々にこき下ろしていた彼女はいったいどこに消えてしまったのだろうか、ってくらいのベタ褒めだ。私も興がノッて来てついついウンチクを語り始めてしまう。
「干し椎茸は昨日の朝から時間をかけて戻したんだ。それを刻んで、同じく薄切りにした茄子といっしょに胡麻油でさっと炒める。そこに椎茸の戻し汁を入れるんだ。これがいい出汁になるんだよ」
「そうかあ、これってシイタケの出汁だったんだ。アタシ、初めてだわシイタケ風味なんて」
「このつゆのポイントはそこだよ、椎茸の出汁。だから生ではなくて干し椎茸を使うんだ。それにそっちの方が味も浸みやすいしね。あとは冷蔵庫に眠ってたそばつゆを入れてひと煮立ちさせれば秘伝のつゆの完成さ」
そんな他愛もない会話の合間にも箸が進む。あれだけいやがっていたそうめんを彼女はあっという間に、それも私の分までもすっかりと平らげてしまった。
「ごちそうさま、とてもおいしかったわ。それにしてもこんな料理、いったいどこで覚えたの?」
「親父から教わったのさ。君ももう覚えただろ、こいつの作り方を。こうやって親の代から伝えられてきたのさ」
「お母さまではなくて、お父さまから? ふ――ん、まさに我が家の秘伝、ってわけね」
そう言って彼女は手にした器に目を落とすとそれをきれいに飲み干してしまった。そして彼女の顔に満足げな笑みが浮かぶ。
「ゴマ油だって思ったほどくどくないし、むしろ夏バテ防止になりそう。この夏はこれで決まりね。ついでに
「今度こそ、そうなるといいな」
「今度こそって、なによそれ。まるで前にも経験したみたいな言い方して」
「スペイン風邪さ」
「スペイン風邪……ちょっと待ってて、オジサン。アタシ検索してみる」
そう言ってスマホなる代物を片手に彼女はその画面を指でなで始めた。
ブウウ――――ン――――ウンウン……。
しまった、換気扇を止めるの忘れていた。
それにしてもこの音、どこかで聞き覚えが……そうだ、これは……。
そう気付いた瞬間、私の目に映る世界が外堀を埋めるようにじわじわと闇に包まれていく。
そうか、そういうことか。私の願いは叶ったということか。
ブウウ――――ン――――ウンウン……。
そしてこの娘が検索なるものを終えてその顔を上げたとき、そこに私の姿はないだろう。
ブウウ――――ン――――ウンウン……。
そうめん
―― 完 ――
そうめん ととむん・まむぬーん @totomn
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